主にかえしてくれた親切を米友として、ここへ来て思い出さないはずはありません。
 あの女はどうしている。まだ鐘撞堂《かねつきどう》新道《しんみち》の相模屋にいるはずだが、そうだとすれば今晩もここへ稼《かせ》ぎに出ているかも知れない、と思って米友は、河岸の柳の蔭、夜鷹の掛小屋をいちいち覗《のぞ》いて歩きました。
 けれども、お蝶らしい女を発見することはできないで、腐れた肉を貪《むさぼ》る有象無象《うぞうむぞう》の浅ましい骸《むくろ》を、まざまざと見せつけられたに過ぎません。
 あれだけの容貌を持ち、あれだけの心立てを持ちながら、あの境遇に甘んじて、それを抜け出そうともしない女の心が悲しい。
 そこを過ぎ去って、杉の森稲荷から郡代屋敷、以前女が殺された所、盲法師《めくらほうし》の弁信とお蝶とが連れ立って通りかかった時、自分はムクと共にあちらから駈けつけて見たけれど、その人は煙の如くに消えてしまった。
 あの身体で、あの目で、夜な夜な人を斬らねば眠れなかったその人もどこへか行ってしまった。その翌日病み疲れた枕辺《まくらべ》に立って――地団太を踏んでみたけれど、彼はどうしてもその人を憎む気になれなかった――沈勇にして大人《たいじん》の風あるムク犬は今も無事で、それでも魂の抜けた主人を守っているのだろう。さて顧みれば四辺《あたり》に全く人はない。今時、今の刻限、このあたりを独《ひと》り歩きするの危険、それは米友だって知っている。
 辻斬の本場ともいうべきこのあたり。深夜にこの辺をうろつく者は、斬りに行くか、斬られに行くか二つの中。ここで米友は、改めて自分ながら危ない夜道だと思いました。
 幸いにして「伝通院学寮」の文字が、辻番の目にも諒解《りょうかい》を与えるに充分であったと見えて、無事にここまで来た時に、はじめて米友も、うすら淋しさを感じたが、もう一息で両国。そこは、花やかな歓楽郷。橋一つ越ゆれば目的の相生町。
 で、以前、女の殺されたあたりの柳の生えた堤《どて》に沿うて急いで行くと、道路に物が横たわっている。心得て米友は少し廻り込んで歩きながら、提灯をつきつけて地上を見ると、道に横たわっているのは意外にも一本の長い刀。
 米友はギョッとして、何かまた、いたずら者の名残り、逃ぐるに急で振落して行ったものだろう、見ぬふりして過ぎるのも卑怯なような気がしたから、ともかくもと腰を屈《かが》めて地上に落ちた刀を拾い取ろうとすると、その刀がひとりでにスルスルと動き出しました。
 刀がひとりでに動き出して堤《どて》の上へのぼると、堤の上から、その刀を携えて下りて来たものがありました。
「武士たるものの魂を足蹴《あしげ》にするとは何事だ」
「ナニ?」
 そこで、米友は一間ばかり飛びしさりました。
「武士たるものの魂を足蹴にするとは何事だ」
 ははあ、例によって辻斬だな、但し、こいつは少々|駈引《かけひき》があると米友がその時に思いましたのは、ほんとうに斬る気ならば前触《まえぶれ》はないはずである、ところが刀を往来中《おうらいなか》へころがして置いて、文句をつけに出るのだから、飲代《のみしろ》でも稼ごうという代物であって、必ずしも斬ろうというのが目的ではない、とは感づきましたけれども、ともかく、これだけの仕掛をするほどの図々しい奴だから、でようによれば斬るだけの腕を持っている奴である。
 で、一間ばかり飛びしさった米友は、提灯《ちょうちん》をかざして、その下りて来た武士たるものの様子を篤《とく》とながめました。
 こちらがながめるより先に、先方は敵の提灯で、敵の内兜《うちかぶと》を見定めたと覚しく、
「こいつは少し当《あて》が外れた!」
 やがてカラカラと大きな声で笑い出したのは、何か相当の獲物《えもの》を期待していたのに、ひっかかったのが一匹の雑魚《ざこ》に過ぎないと見たからでしょう。なるほど、夜目遠目で一見したところでは、米友は雑魚のようなものです。
「いいから通れ、通れ」
 武士たるものは米友に向って、鷹揚《おうよう》に木戸を通そうとするが、お情けで網の目からおっぽり出されて、それを有難がる米友ではありません。
「お前に許しを受けなくったって通らあな、天下様の往来だ……」
 天下様の往来とはいいながら、この場合において、この男は大手を振って通るわけにはゆきません。提灯を左に持って、杖槍を右にかい込んで、その円い目を、武士たるものの身のまわりへピタリとつけて、やや遠くから廻り込むようにして過ぎようとするのを、武士たるものはじっと立ってながめている。
「待たっしゃい」
 米友が、ようやく半円形に通り過ぎた時分に、立っていた武士たるものが、また言葉をかけました。
「何だい」
 米友は怒気を含んで答えます。
「見受くるところ、貴様は取るに足らぬ下郎ゆえ、
前へ 次へ
全85ページ中49ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング