助けて遣《つか》わそうと思ったが」

「取るに足らぬ下郎でまことに済まなかった、それがどうした」
 勃然《ぼつぜん》として、宇治山田の米友がタンカを切りにかかると、武士たるものが、
「推参な、下郎の分際で武士たるものの魂を足蹴《あしげ》にした不埒《ふらち》な奴、刀の手前、許すわけには相成らん」
「ばかにしてやがら」
 ここで米友は冷笑を発し、
「武士たるものの魂がどうしたんだ、自分の魂を足蹴にされるようなところへほうっておくおびんずる[#「おびんずる」に傍点]も無かろうじゃねえか」
「何と申す、無礼な奴」
 ここで武士たるものが憤《おこ》り出しました。最初は相当の獲物《えもの》と思って網を張ったのに、ひっかかったのが存外の雑魚《ざこ》だから、逃がしてやろうとした情けを仇《あだ》に、あべこべに啖呵《たんか》を切っておびんずる[#「おびんずる」に傍点]呼ばわりするのは奇怪な奴、たとい馬鹿にしてもようしゃはならないと、憤然として武士たるものは、今にも斬って捨てんず意気を見せました。そうすると米友は提灯を下へ置いて、足場を見計らい、例の杖槍を取って、半身《はんみ》に構えたものです。
「武士たるものの魂がそれほど大事ならば、大道中《だいどうなか》へころがしておくがものはなかろう、樟脳《しょうのう》の五斗八升もふりかけて、七重の箱の奥へ八重の鍵でもかけて蔵《しま》っておいたらどうだ」
「よくも拙者をおびんずる[#「おびんずる」に傍点]にたとえたな」
 武士たるものも容赦のならぬ顔色です。
 武士たるものは、今にも斬らんず構えをして、槍を構えた米友の形を篤《とく》と見たままで、まだ刀を抜き放たないのは、かなりのくせ[#「くせ」に傍点]者であります。
 下段《げだん》に身をしずめている米友。風雲甚だ急なる時、武士たるものが、存外|急《せ》き込まないで、
「ははあ、こいつは奇妙だ」
といいました。
 さて、米友にもまたわからなくなりました。宇治山田の米友は、槍を使うことにおいては天成の自信を持っているはず、天成の自信に、淡路流の極意を加えて、格法を無視して、おのずから格法の堂に入《い》っていることが、心得ある人を驚かすのを例とする。進んで道場荒しをして、我を売らんとするほどの野心はないが、来って触れる者を驚かすには充分である。槍を持たせればこの男は、たしかに眼中人が無くなって、自分の天分以外の達人は有りとも、自分の天分以上のものは無いと信じて疑わない。系統格法は論外に置いて、物があらば必ず突き留め得るものと信じて疑わないところに、この男の破天荒《はてんこう》な勇気がきざして来るのであります。我を知るものは必ずや敵を知って、彼はこの勇気を思慮なく濫用するということはありません。
 わからなくなったのは、大道へ武士の魂を抛《ほう》り出して、飲代《のみしろ》にでもありつこうとする代物《しろもの》のことだから、恫喝《どうかつ》は利いても、腕は知れたものだろうとの予想が外れて、悠然として此方《こっち》のかかるのを待っている体《てい》は、やはり米友その者を知らないから、ちょっとばかり腕に覚えのある馬鹿者が、誰かにオダてられて来たのだろうと、多分、先方はその辺に見くびりをつけたのでしょう。それとも事実腕のある大男の剛の者か。そこで、米友はわからなくなったけれども、敢《あえ》て自分の自信を傷つけられたというわけでもありません。
 その呼吸を見て取った武士たるものは、
「待ち給え」
 刀を抜かないで、掌《てのひら》を突き出して米友の槍の出端《でばな》を抑えるようにして、
「君のその槍は、拙者の小手を突くつもりだろう」
 といいました。これには米友がピリリと来て、
「エ?」
といって眼を円くしますと、
「君の槍は奇妙千万で何とも形容ができない。いったい、君はどこでその槍を習った。槍先はたしかに宝蔵院の挙一になっているが、槍そのものの構え方は木下流に似ている、といって気合精神はそれらの流儀のいずれでもない、トンと奇妙千万。まあ、仲直りをしよう、仲直りをして一話し致そうではないか」
 先方から講和を申込んで来ましたが、その時、米友は、
「うーん」
と唸《うな》り出しました。今度は全くわからなくなったのです。武士たるものはいっこう騒がず、
「君、まあ、この辺へ坐り給え。実は君をオドかして済まなかったが、こんないたずら[#「いたずら」に傍点]をしてみたのは、この辺が辻斬の本場になって、世人が迷惑を致すから、ひとつ見せしめを試みて、今後を戒しめようとして、こうして網を張ってみたのだが、求めてみるとなかなか獲物《えもの》はかからない、ところへひっかかった君は、案外の雑魚《ざこ》だと思ったら、実は意外の掘出し物であったのだ。勘弁し給え」
 聞いてみるとなるほどと頷かれる。してみ
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