と》をいって、土間へ入り込んで来た時分に、土間では一斗も入りそうな薬鑵《やかん》のつるされた炉の周囲に、寺侍だの、寺男だのが、腰掛で雑談の真最中であります。
「やあ、友造どのお帰りか」
 ここでは友造の名で通っている。
「遅くなって済まねえ」
 笠をとり、風呂敷包を解きながら、再び申しわけをしましたけれど、実はそんなに夜が遅いのではありません。ただ予定通りに帰れなかったことを、米友として、しきりに申しわけながっているのだが、誰も別してそれを咎《とが》めようとする人もなく、かえって寺侍の一人が、意味ありそうにニヤニヤと笑って、
「友造どの、奢《おご》らなくってはいけないぜ」
「ナゼ?」
 米友が円い眼をクルクルさせると、
「なんと皆の衆、今日はひとつ、友造どんに奢らせなければなるまい」
「そうとも、そうとも、今日はひとつ、友兄に奢ってもらうがものはある」
「それ、どうだ、友造どの、覚悟をきめて返答さっしゃい」
「何だかわからねえ」
 米友はようやく首根っ子に結びつけた風呂敷包をほどいて、縁台の上へ置いて、解《げ》せない面《かお》。それを興あることに思って、一同の者が残らず米友を的《まと》に、
「さあ、友造君、奢るか奢らないか」
「わからねえ、奢っていい筋があるなら、ずいぶん奢らねえものでもねえが、わけも話さねえで、人を見かけてむりやりに奢れったって、そうはいかねえ」
 米友は炉の傍に立ったままで解せない面に、多少の不安を浮ばせていると、
「友造どの、そなたに宛てて別嬪《べっぴん》から文書《ふみ》が来ているよ」
「エ、文書が……」
 寺侍の某《なにがし》が、やはりニヤニヤと笑いながら、一通の封じ文を米友の眼の前に突き出して、
「どうもこの頃中から様子がおかしいと思っていたら、この始末だ、油断も隙もならねえ」
 そうすると寺男がまた口を出して、
「全く人は見かけによらねえもんだ、これを奢《おご》ってもらわなかった日にゃ、やりきれねえ」
「うーん」
 と米友が眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って唸《うな》りながら、その一通を受取って見ると、美しい女文字で表に「友造様まいる」――一同の連中は、面白がって、まじまじと米友の面《かお》をながめていると、当の米友はニコリともしないで、裏を返して見ると「本所相生町にて、松より」
「友造さん、最初はその手紙を使の者が持って来たんですが、待ち切れないと見えて、御当人が、わざわざおいでになりましたよ」
「うん」
といって米友は、周囲の雲行きに頓着なく、その場で封を切って読んでみると、
[#ここから1字下げ]
「米友さん、あなたのいらっしゃる所を、今日道庵先生からお聞き申しましたから、大急ぎでこの手紙を差上げます。手紙をごらんになりましたら、すぐにおいで下さいまし、お君さんが危ないのです。ぜひ、生きている間にもう一ぺん米友さんに会いたいといっていますから、今までのことは忘れて来て上げてください。これを聞いて下さらなければ、私が一生恨みますよ」
[#ここで字下げ終わり]
 読んでしまうと米友が、暗い心になりました。伊勢の古市《ふるいち》以来、幼馴染《おさななじみ》のお君が、今、九死の境にいる。駒井能登守にだまされて、身を誤った女であるけれども、こういう場合にこういわれてみれば、さすがに米友もひとごとではない。

 再び伝通院の学寮を立ち出でた宇治山田の米友。以前と違って笠をかぶらないで、「伝通院学寮」の提灯《ちょうちん》を腰にはさみ、例の杖槍はてばなすことなく、門を出て本郷の壱岐坂《いきざか》方面へ、跛足《びっこ》を引いて歩んで行きます。
 米友としては、たとい、お君の行動に憤《いきどお》りを含むとはいえ、妊娠のことも聞いている、病気のことも聞かないではない、九死一生を訴えられてみれば、行かぬのは義において欠くるところありと考えたのでしょう……しかし、心は決して打解けているわけではありません。
 今日は、なかなか多事の日である。あれから足利の絵師田山白雲に引っぱられて人気者の中を横ぎり、奴鰻《やっこうなぎ》で一杯飲みながら――米友は飲まないけれども――その絵師の縦横の画談を聞きつつ、彼が自分を床の間に立たせて、写生を試みている熱心な態度を思い出してみると、尋常な絵師とは思われません。今こそ落魄《らくはく》はしているが、後来必ずや名を成すのは、あんな人だろうなんぞと米友は考えました。
 やがて、柳原河岸近くまで来た時分、ここは貧窮組《ひんきゅうぐみ》の騒いだところ。自分が金包を落して、それを夜鷹《よたか》のお蝶に拾ってもらったところ。そのお蝶こそ恩人である。大事な節操を、二十文三十文の金で切売りをして恥じない夜鷹の身でありながら、人の落した大金は大切に保存して、苦心を重ねて、それを落し
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