外に立っているのが不思議。いや不思議でも例外でもない、御同様の盲目で、多分その殺気は受けても、殺剣が見えないからでしょう。
「身に徳があれば刀刃《とうじん》も段々に折れることでございましょう、徳がなければ刃を待たずしても亡ぶるものでございます。前世の果報が尽きた時に、今生《こんじょう》の終りが来るのでございますから、死ぬも生きるも己《おの》れの業《ごう》一つでございます。業は受けざれば尽きずと釈尊も仰せになりました、逃れんとしても三世の外へ逃るることはできません……私は、もうここを動きますまい、ここにこうして、じっとして立っておりましょう」
 彼は相変らず殺剣の前に立って減らず口――しかし減らず口も、この際これだけの余裕を持ち得ることは、無辺際なる減らず口といわねばなりません。

 清澄の茂太郎は、その時分、寺の東南、宮の台なる三重の塔の九輪《くりん》の上に遊んでおりました。
「弁信さあーん」
 塔の上から三度、弁信の名を呼んだけれども返事がありません。そこで彼は、
「どうしたんだろう」
 九輪を抱きながら、月光さわることなき地上を見下ろしました。いつもならば、呼ばない先に「茂ちゃんかい」――庭へ走り出して、見えない眼をこちらへ振向けて返事をするはず。そうすると茂太郎は、「ああ、わたしだよ、弁信さん、琵琶を持ってこっちへおいでよ」「茂ちゃん、お前どこにいるの」「三重の塔の天辺《てっぺん》にいるんだよ、月がいいからおいでよ」「待っておいで」――そこで弁信が、いったん寺の中へ取って返して琵琶を持ち出して来るのだが、今宵はさっぱり[#「さっぱり」に傍点]返事がありませんから、
「どうしたんだろう」
 九輪の上で茂太郎は、しきりに小首を傾けております。
 どこへも出かけたはずはない、まだ眠ったとも思われない。打てば響くほどの返事がないのが、なんとなく気がかりで、茂太郎はまもなく、三重の塔を下へ降りて来ました。
 下りて来たところも満地の月。月光、水の如くひたひたと流れているものですから、茂太郎の心が浮立って歩む足どりも躍るように、精いっぱいの声を張り上げて、宮原節を歌い出しました。
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向うを見ろよ月が出る
おいらは森にいつ行くか
しゃるろっとにしゃるろは
こう訊《き》いた
しゃとうには
とう、とう、とう
おいらが持つのは一人の神様
一人の王様
たった一文《いちもん》に靴片方
麝香草《じゃこうそう》に露の玉
朝っぱらから飲んだくれ
二羽の雀は満腹ぷう
ばっしいには
じい、じい、じい
おいらが持つのは一人の神様
一人の王様
たった一文に靴片方
こうまのような狼二匹
かわいそうだが酔っぱらい
穴では虎めが上機嫌
むうどんには
どん、どん、どん
おいらが持つのは一人の神様
一人の王様
たった一文に靴片方
一人は悪口《あっこう》、一人は雑言《ぞうごん》
おいらは森にいつ行くか
しゃるろっとにしゃるろは
こう訊いた
ばんたんには
たん、たん、たん
[#ここで字下げ終わり]
 器量いっぱいの声を張り上げて、茂太郎は唄いながら、宮の台から卵塔場《らんとうば》を突切って、
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怪体《けたい》な鼠のお喋《しゃべ》りめ
こないだミラの窓叩き
おいらを呼んだばっかりに
娘たちぁどこへ行く
ロン、ラ
ほんにいとしや女ども
おいらを迷わすその毒は
オルヒラさんをも
酔わすだろ
娘たちぁどこへ行く
ロン、ラ
[#ここで字下げ終わり]
 庭の木戸口へ来ると、ギョッとして、何かに驚かされて立ちすくんでしまいました。
「弁信さあ――ん」
 この時、一方では水を切って落ちて来た一刀。丈余の卒都婆《そとば》をストリと二つに切って、南無阿弥陀仏の梵字《ぼんじ》を頂いた「我不愛身命」の残骸が下に、残る所の一面には、「但惜無上道」が冷々たる寂光を浴びて、空を制してそそり立っているばかりです。
「あ!」
と言ったのは清澄の茂太郎で、弁信法師は天に上ったか、地に伏したか、その影をさえ見ることができません。
 暫くあって弁信法師が、
「茂ちゃん、危ないよ」
「弁信さん、どうしたの」
 二人は抱き合って、卵塔場の中へ紛《まぎ》れ込んで姿を消してしまいました。
 同時に、竜之助の姿もそこには見えません。ただ氷片のような卒都婆の残骸が、いよいよ白く月光を浴びて、夜の更くるに任《まか》するのみです。

 その翌朝、二つに切られた卒都婆を見て、まず驚きに打たれたのは、寺の娘のお雪ちゃんであります。
「まあ、卒都婆が二つに切れていますこと、勿体《もったい》ない」
 それを拾い上げているところへ、子をつれた鶏が餌をあさりに来て、ククと鳴く。
「綺麗《きれい》に切れている、茂ちゃんでも悪戯《いたずら》をしたのか知ら」
 長さ一間に及ぶ、梵字と経文の卒都婆の半分
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