ぬぎ》の上に並べてあった草履をつっかけると、声をしるべに徐々《しずしず》と弁信の方へ近寄って参ります。
そこで、弁信は、いよいよ圧迫されて、苦しまぎれの絶叫を振絞って、人を呼ぶかと見ればそうではなく、
「先生、私は、あなたの殺気を怖れます、けれども自分の命を取られることを、さのみ怖れは致しません」
この場合において、お喋り坊主の減らず口は、必ずしも減らず口とは思われないほどの冷静を持っています。それには頓着無しの竜之助は、刀を片手の中段に持ち直して、ジリジリとそれを突きつけて来る呼吸は、絶えて久しく見ない「音無しの構え」です。兎を打つにも全力を用うるという獅子の気位か知らん。この身に寸鉄もない……寸鉄があったからとて、それを用うる術《すべ》を知らない盲目の小法師に向ってすらが、彼は正式にして、対等の強敵に向うと同じ位を取って突きつけて行く時に、言おうようない悽惨《せいさん》な力が、その刃先といわず、蒼白い冴《さ》えた面《おもて》といわず、白衣に月を浴びた五体といわず、さっと流れて面を向くべくもないのであります。
ところで、不思議なるは弁信法師。この凄まじい刃先を真向《まとも》に受けて、それを相も変らず卒塔婆《そとば》の蔭に避けてはいるが、一向に悪怯《わるび》れた気色が見えません。
「私は死ぬことを怖れません……染井の屋敷で、神尾主膳のために井戸の底へ投げ込まれた時に、死は怖れではなくして、悦びであることを悟りました、その時まではいわれがなくして死ぬのがいやで、必死で生きることに執着は致してみましたけれど、今となっては、いわれがありましょうとも、なかりましょうとも、死ぬべき時に、死ぬることを怖れは致しませんが、また甘んじて免れ得らるべき命を、殺したいとも思ってはおりませんのでございます」
といいながら、ジリジリと迫って来た刃先を左へ廻って避けました。その時、月の光もまためぐって、卒塔婆にうつる一面の文字には、
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「我不愛身命、但惜無上道」
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月は冷やかに、道志脈の上を徘徊《はいかい》すること、以前に変りはありません。
この頃、月をながめている人の話によると、時あって月が紅《あか》く見えるそうです。多分、それは黄塵が空中に満ちて、銀環《ぎんかん》の色を消す所以《ゆえん》のものでありましょうが、人によってはそう見ません。
白虹《はっこう》日を貫くのは不祥である、月光|紅《くれない》に変ずるのも只事ではない。日月は天にあって、人生を照覧するものだから、心を虚《きょ》にしてそれを直観していると、すべての人間界の異象《いしょう》がまず以て日月の表に現われるのだということを、まじめに信じているものがあるのですから、夜な夜な月色が紅に変ずるのを、吉兆と見たり、悪瑞《あくずい》と見たりする者の出づるのも抑えることができません。そうだという迷信に対して、そうでないという正信も成立ってはいないらしい。
一本の卒塔婆を中にして、盲法師のお喋《しゃべ》り坊主の弁信と、刃をつきつけた机竜之助とが相対している時に、たまたま道志脈の上に横たわる月の色が変ってきました。たとえ、一時《いっとき》とは言いながら、血のように紅く見え出してきたのが不思議です。
とはいえ、それは都大路で見る時のように、多くの人が人だかりして指さし騒ぐのではない。この小高原のあたりでは、もうすでに寝静まり、月見寺の庭には、こうしてただ二人だけが相対しているのみで、しかも、その二人ともに眼がつぶれているのですから、月が紅くなろうとも、青くなろうとも、あえて驚く人ではありません。
しかし、月の紅く見えたのはホンの一時、あれと言っている間に、もとの通りの冷々然たる白い光を静かに投げて、地上は水を流したようです。
机竜之助の刀を突きつけてジリジリと詰め寄るのは、非常に悠長なもので、名人の碁客が一石をおろすほどの静粛と、時間とを置いて、弁信法師に迫っては行くが、まだたしかに両者の距離は三間からあります。盲目となって以来、この男の刀の構えぶりが、一層静かになってきました。刀を以て敵を斬るよりは、刀をふせ[#「ふせ」に傍点]て敵を吸い寄せるの手段かに見えます。思うに、盲目となって以来、幾多の人を斬った手段が皆これでしょう。刀を構えると、全身の殺気が電流の如く、その刀に流れ寄って来るのであります。蛇が樹下にあって口を開くと、鼠がおのずからその口中に落ちて来るように、この流るるが如き殺剣《さっけん》を突きつけられると、何物も身がすくんで、我とその刃に触れて、命を終らぬということはありません。斬るよりは寧《むし》ろ斬られるのです。のがれんとするよりは、近づいて来て斬られてしまいます。
ひとりこのお喋り坊主の弁信に限って、その怖るべき吸引力の
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