た上ります」
といって、娘は泣きながら、庫裡《くり》の方へ帰ってしまったあとで、竜之助は蒲団《ふとん》の下に敷いて寝ていた白鞘物《しらさやもの》の一刀――殺されたという女が記念《かたみ》にくれた――それを取り出して膝へ引寄せました。引寄せてみたところでどうなるものか、この刀に、その女の魂魄《こんぱく》が残っているわけではあるまいし、といって、見えぬ目の前にいる見えぬ同士の弁信を、どうしようというのでもあるまい。五十丁峠から陣馬へかかるところで、みちに迷うて行きつ戻りつしていた駕籠を、無事にこっちへ引向けて、予定通りこの月見寺へ導いて来たのは、ほかならぬお喋り坊主のおかげではなかったか。
その弁信法師は、この時分、もう再び琵琶をかなでるの元気はなくなったと見え、そうかといって、それを蔵《しま》おうでもなく、しょんぼりとして縁先に坐ったままです。
空の月は、青根から大群山《おおむれやま》の上をめぐっている。
「弁信殿」
「はい」
竜之助の問いに弁信が、例によって神妙な返事をします。
「お前は心あってああいうことを言われるのか、それともその時の出まかせか」
重ねて竜之助が問うと、弁信は、
「左様でございます」
同じところを向いたままで、同じようにしょんぼりとしたままで、
「私は口が過ぎていけません。そのことは知らないではありませんから、自分ながら慎《つつし》みをしようかとも思いますけれども、その場合になりますと、そういう感じがフイに湧き起って参りまして、そう言わなければだまっていられないのでございます。言ってしまったあとで、ハッとは思いますけれども、なおよく考えてみますと、自分のいったことが間違っていたとは思われませんので、これはいい過ぎたと後悔を致したことが更にございませんのです。その時はお笑いになった方々まで、あとになりますと、私の申したことにヒタヒタと思い当ることがおありなさると見えて、さのみ私をお咎《とが》めにもなりませんのでございます」
「では、ここにいる拙者が、巣鴨まで人を殺しに行ったのも本当かも知れない」
といって竜之助は、冷たい笑いを例の蒼白い面《おもて》に漂わせましたが、何としたものか、その笑いが急に止むと、その面がみるみる真珠のような白味を帯びて、ひとむらの殺気が濛々《もうもう》として、湧き上って来るようです。
その時、弁信法師はこれも何と思ったか、ヒラリと縁を飛び下りて、下に揃えてあった草履《ぞうり》を穿《は》き、すたすた[#「すたすた」に傍点]と庭へ下りて行って、庭の一隅《いちぐう》に四寸角、高さ一丈ほどの卒塔婆《そとば》が立って、その下に小石が堆《うずたか》く積んであるところへ来ると、腰を屈《かが》めて合掌し、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と唱えて、その小石を一つずつ取っては移し、取っては移ししていました。その時|褥《しとね》をガバと蹴って跳ね起きた竜之助は、白鞘の刀を抜いて縁先に立ちましたが、その見えない目は、まさしく盲法師の弁信に向っている。
「あ、先生! あなたは私をお斬りになろうというのですか」
目の見えない弁信の振向いた面《おもて》は、やはりピタリと竜之助の面に合っています。
何ともいわない竜之助の白衣の全身から、まさしく殺気が迸《ほとばし》っているのを感得した弁信の恐怖を、誰あって来り救おうとするものもありません。
ヒラリと卒塔婆の蔭に身を移した弁信は、恐怖は感じながらも、叫びを立てて人を呼ぼうでもなく、
「先生、あなたが私を斬ろうとなさるのはいけません、今までにないことでございます、今まで私は、あなたの傍におりましても、更にその殺気というものを受けたことがございませんから、少しも怖れというものが起りませんでしたけれども、今は怖れます、あなたは、たしかに私をもお斬りになろうという覚悟で、それへおいでになりました」
弁信の小楯《こだて》に取った卒塔婆の一面に、この時、真向《まとも》に月がさすと、それに、
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「若残一人、我不成仏」
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の文字がありありと読める。ただ、斬ろうとする人も、斬られようとする人も、共にそれが認められないだけです。
「此寺《ここ》へおいでになってから、これで二度《ふたたび》あなたの身に殺気の起ったことが私の心に響きました。その一度は、先日の夜、あなたは、今のあの娘さん――お雪ちゃんというのを斬ろうとなさいました。その時、私が感づいたものですから、不意に中へ入ってお雪ちゃんを助けてやりました。それともう一つは、たった今、私を斬ろうとなさるその心です。悲しいことではございませんか、まだ、あなたは人を斬らなければならないのでございますか」
といったけれども、何の返答もなく、刀を提げてそろそろと縁を下りて、沓脱《くつ
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