を、お雪は重そうに両手で抱え上げて、庭を廻って見ると、縁側の日当りのよいところに、弁信と茂太郎とが栗を数えて話をしています。
「弁信さん」
お雪が呼ぶと、
「はい」
「茂ちゃんもごらんなさい、こんなに卒都婆が斬れていましたよ」
「ええ」
二人はいい合わせたように栗を数えた手を休めると、お雪は卒都婆を縁の上へ置いて、
「誰が悪戯をしたんでしょう」
といって、茂太郎の面を見ると、
「あたいは知らないや」
茂太郎がいいわけをする。お雪は、深く咎《とが》めようともしないが、それでも、茂太郎の外に、こんな悪戯《いたずら》をする者はないような面《かお》をしたのが気になると見えて、茂太郎はムキになって何かいおうとしたが、弁信が急にそれを遮《さえぎ》るように、
「雪ちゃん、御覧なさい、私の法衣《ころも》もこの通りに切れていますよ」
「ええ?」
「その卒都婆と同じように、斜《はす》に切れているでしょう」
「まあ、どうしたのです、わたしが縫って上げましょう」
お雪が改めて見直すと、なるほど、弁信の麻の法衣の左の肩から袈裟《けさ》をかけたと同じように、一筋の切れ目が糸を引いています。
「法衣だけじゃないのです、下着まで、これと同じことに切れ目が入っているんです。いいえ、下着ばかりじゃありません、たしかにこの私の身体の中にも、これと同じ筋がついていると思いますが、よく見て下さい」
と言って弁信法師は、肌を押しぬいで見ますと、赤い筋が一線、左の肩から、胸から、下腹までかけて、絹糸ほどの筋を引いているのですから、そこでお雪が驚いて、
「弁信さん、お前、誰かに斬られたんですか」
「いいえ、斬られたんなら生きちゃいませんが、わたしは斬られなかったのです。その代り、つまり、私の身代りにその卒都婆が斬られたんでしょう」
「誰が斬ったのでしょう」
「誰か知りません」
「怖いことね」
お雪は慄《ふる》え上って思わず小庭の方を見廻しましたが、小春日和《こはるびより》うららかで、子をひきつれた鶏が、そこでもククと餌を拾っているばかり。
「ちゅう、ちゅう、たこかいな……、弁信さん、お前にこれだけ上げよう」
茂太郎は頓着なしに、山から拾って来た栗の粒を数えて、一山だけを弁信の前に置き、改めてお雪に向い、
「雪ちゃん、お前にも少しわけて上げようか」
庭の鶏も、縁の上の人も、いずれも平和の気分ではあるが、お雪はなんだか鉛のように重いものが、このうららかな天気を圧して、青天白日の間に鬼火が流れるように、ゾクゾクと寒気《さむけ》が立ち、書院の火燈口《かとうぐち》の方を見やると、そこに微かな人の咳《しわぶき》の声がします。
「弁信さん、お前、怖くはないの?」
と言って見た時、平然として坐っていた弁信の面《かお》の色が真蒼《まっさお》でありました。
二十二
宇治山田の米友は、道庵先生のために、圧倒的に説き伏せられて、とうとう上方行きの随行を承知することになってしまいました。
米友にとっては、道庵が命の親であるのみならず、たしかに一箇の苦手《にがて》で、この人に向うと、得意のタンカも切れなくなってしまい、苦々《にがにが》しい思いをしたが、それといって今の身分で、道庵の頼みを拒《こば》むべき理由もなく、かえって無意味に遊んでいるよりは、有益なことには違いないから、ともかくも返答に三日の猶予を置いて、これから小石川へ帰ろうとします。
気の短い道庵は、お仕着せや、そのほか旅の用意をその場で調《ととの》えて、それを風呂敷に包んで、米友に背負《せお》わせました。そこで米友は、件《くだん》の風呂敷包を首根っ子に結《ゆわ》いつけ、竹笠をかぶって、跛足《びっこ》の足を引き、例の杖槍をついて、道庵の屋敷を立ち出でました。
ふらふらと浅草広小路へ出て来た米友は、ここだなと思いました。ここで、その昔、梯子乗《はしごの》りの芸当をやって見せて、かなりの人気を博したことがある。その時、ある大名の行列が乱暴をしたから、その先手《さきて》の水瓜頭《すいかあたま》を十ばかり見つくろって殴《なぐ》り、吉原の方へ逃げ込んだことがある。その時の前科はもう気のつくものはあるまいが、それでも米友は多少気が引けて、笠をかたげる気分で通ってみても、露店や見世物の賑やかなところを見ると目うつりがして、やがて以前、自分が梯子乗りをしていたところへ来て見ると、そこに店を張っているものがあります。
それは一人の絵描《えか》きが露店を張って、通る人の求めに応じて、さまざまの絵を描いているのであります。
ところが、この絵描きが、風采《ふうさい》からしてすこぶる変っています。六尺豊かの筋骨|逞《たくま》しい鬚男《ひげおとこ》で、髪は結髪《けっぱつ》にした上から、手拭で頬かむりをし、眼先なかなかものす
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