前、もう休んでもいいよ、旦那様がお帰りになったら起すから」
「有難うございます」
女中が行ってしまってから、小戻りして来たお絹は、
「百蔵さん、お入り」
それとは別に、その晩、江戸の市中の一角を騒がすの事件がありました。
とある幕府の重い役、老中の一人をつとめていたことのあるお屋敷の中の一隅で、かねがね賭博を開いていたものがある。もちろん、集まるほどの者は、邸外のやくざ[#「やくざ」に傍点]者であったが、それを張番しているのが邸内の馬丁《べっとう》ども(厩仲間《うまやちゅうげん》)であったがために、そのお屋敷の威光をかさに着て、だんだん増長してきたために、見のがせなくなって、その門外でお手入れがあったということで、その界隈は容易ならぬ騒ぎとなりました。そこで上げられた者は誰だか知らないが、風聞だけはかなりに喧《やかま》しく、なかには歴々《れきれき》の旗本さえあって、上げられた以外の者に、慌《あわ》てふためいて逃げのびたしかるべき士分の者もあったという。
洗ってみれば、さほどの事件でもなかったろうが、その当座、事が秘密にされていたものだから、それをなかなか重大に考えたものがあって、江戸人の頑固な方面を代表する老人はなげきました。
「権現様が旗本をつれて江戸をお開きになった根元というものは、そういったものではなかったのだ、権現様は大きなお庄屋さん気取り、旗本は三河の田舎《いなか》ざむらいを恥としなかったものだが、世が末になればといって、今日このごろの有様は、ほんとうに浅ましくって涙もこぼれない、色里や歌舞伎者《かぶきもの》にチヤホヤされるのが江戸ッ児だと心得ているくらいだから、刀のさしようは知らなくっても、花札の引きようは心得て、町浄瑠璃《まちじょうるり》の一くさりも唸《うな》れなければ、さむらいではないと思っている、心中者が出来れば羽目《はめ》を外《はず》して大騒ぎをやる、かりにも老中のお屋敷がバクチの宿となって、旗本がお手入れを食って逃げ出したとは、なんというみじめ[#「みじめ」に傍点]な有様だ、これで世が亡びなければ亡びないのが不思議だが、しかし、さすがに権現様の御威光は大したもので、これほどに腐りきった屋台骨が、ともかくも無事で持ちこたえられているというのは、一《いつ》に東照権現の御威光のしからしむるところだ」
しかし、また一方には、それをせせら[#「せせら」に傍点]笑う若いものもあって申します。
「それじゃ何かえ、せっかくここまで進んで来た江戸の文化を、昔の田舎気分に引き戻せとおっしゃるのかい。権現様だってなにも、人間を窮屈にしようと思って江戸をお開きになったわけじゃあありますまい。そりゃ戦争の時分は玄米飯をかじるもよかろうが、平常《ふだん》、玄米ばかりかじってもいられまいじゃないか。第一権現様の時代と今日とは時代が違いますぜ、今時《いまどき》、江戸に生れて清元の一つも唸《うな》れねえようなのは人間とは言われませんや。京都へ行って見さっし、長州だといったところで、薩摩だといったところで、江戸のさむらい[#「さむらい」に傍点]ほど京女に持てるのはありゃしませんぜ、京女に鼠なきをさせるのは、東男《あずまおとこ》に限ったものでゲス」
それとは趣を異《こと》にした本所の相生町の老女の家では、南条力が壮士を相手にして、
「当時、江戸幕下に人物がないとは言えないのだ、小栗上野《おぐりこうずけ》がある、勝安房《かつあわ》がある、永井|玄蕃《げんば》も、水野|痴雲《ちうん》も、向山黄村《むこうやまこうそん》、川路聖謨《かわじせいぼ》、その他誰々、当時天下の人物としても恥かしい人物ではないが……なにぶん大廈《たいか》の覆《くつが》える時じゃ、徒《いたず》らに近藤勇、土方歳三輩の蛮勇をして名を成さしむるに至ったのも、天運のめぐる時でぜひもない……それにつけても我々は、亡ぶべきものを亡ぼすと共に、生れ出づべき生命を、永久に意義あるものとしなければならない」
二十
さてまた、長者町の道庵先生の屋敷の門前では、子供たちがしきりに砂いじり[#「いじり」に傍点]をして遊んでいます。
「粂《くめ》ちゃん、そんなことをしてもツマらないから、もっと高級な芸術をこしらえて遊ぼうや」
「ああ、そうしよう、みんなおいでよ、良ちゃんもおいでよ、広ちゃんも。みんなして高級な芸術をこしらえて遊ぶんだから」
「ああ、あたいも入れておくれ」
「あんまり大勢呼ぶのはおよし」
「高級な芸術ってどんなの」
「今、あたいたちがこしらえるから、こしらえたら上手《じょうず》でも下手《へた》でもいいから、みんなして手を叩いて賞《ほ》めるのよ」
「それが高級な芸術なの?」
「ああ、君たちも少し手伝っておくれよ」
「あたいもね」
子供たちが集まって、
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