]として、絵本に見入っている。そこで福村は、
「お気を直して下さいよ」
 それでもお絹は、つん[#「つん」に傍点]として口を利こうとはしません。
 その時、急に次の間から、はした[#「はした」に傍点]女《め》の声で、
「あの――出羽様のお屋敷からお使の衆がお見えになりまして、今晩集まりがございまして、皆さんが大抵お揃いになりましたから、どうぞ御主人様にも、早速おいで下さるようにとのことでございます」
「あ、そうだ、忘れていた、今日は例の集まりの日であった」
 福村は、急にそわそわとして、何かと用意をし、
「それじゃ行って参りますから、後のところをよろしく。なに、ちょっと面《かお》を出してすぐに戻って参りますよ、どうか御機嫌を直してお待ち下さるように」
 刀をたばさんで出かけようとするから、お絹もだまってはおれず、
「行っておいでなさい」
 無愛想に言った。その言葉に福村は、甘ったるい思いをしながら、ほくほく[#「ほくほく」に傍点]と出かけて行きました。集まりというのは、何かの賭事《かけごと》を意味しているこの一連の、どうらく[#「どうらく」に傍点]者の集まりに相違ない。
 残されたお絹は絵の本を置いて、この時はじめて、福村が買って来てくれた錦絵を一枚ずつ念入りにながめていましたが、それも見てしまうと、暫くぼんやりと物を考えているようでしたが、何か急にイヤ[#「イヤ」に傍点]な気がさして来た様子で、
「おとうや――」
 女中を呼んだけれども返事がありません。
「いないのかえ」
 だだっ広い屋敷のうちが、ひときわひっそり[#「ひっそり」に傍点]して、滅入《めい》りそうな心持です。
「どこへ行ったんだろう」
 お絹は、だらしなく立って廊下へ出て行きました。こんな時には早く寝てしまった方がと……厠《かわや》から出て手水鉢《ちょうずばち》の雨戸を一尺ばかりあけて見ると、外は闇の夜です。
 お絹が手水をつかっていると、植込の南天がガサリとして、
「御新造《ごしんぞ》」
「おや!」
 お絹がびっくり[#「びっくり」に傍点]しました。
「誰?」
 あわや戸を立てきって、人を呼ぼうという時、
「わたくしでございます、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵でございます」
「百蔵さん――なんだって今時分、こんなところから」
 お絹が呆《あき》れて、立ち尽していると、
「ようやく尋ね当てて参りました」
 外に立っている男は、唐桟《とうざん》の襟のついた半纏《はんてん》を着て、玄冶店《げんやだな》の与三《よさ》もどきに、手拭で頬かむりをしたがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵であります。こうして不意に忍んで来ても、前以て相当の理解があればこそ、お絹もさほどには驚かないものと見えて、
「どうしてここがわかったの」
「昼のうち、あるところで、福兄さんの姿を見かけたものだから、あとをつけて漸《ようや》くわかりました」
「あんまり突然《だしぬけ》だから、こんなにびっくり[#「びっくり」に傍点]してしまった」
 お絹は胸へ手をさし込んでみる。
「……それでも笹子峠の時ほどびっくり[#「びっくり」に傍点]はなさるまい」
「あの時は命がけだったよ」
「こっちも命がけでしたよ。どうです、徳間峠の時と比べたら」
「あの時は怖かった、あんな怖い思いをしたことはありません」
「この通り右の片腕を打ち落されて、生れもつかぬ片輪にされちまったのは誰故でしょう」
「誰も頼みはしないのに」
「頼まれちゃやれません。時に御新造《ごしんぞ》、私はもう一ぺん危ない剣《つるぎ》の刃渡りをしてみようと思うんで。これはさる人から頼まれて、慾と二人づれなんだが――」
「まあ、ともかくもお上り」
といった時、表でガラリと戸のあく音がします。ハッと離れた二人。がんりき[#「がんりき」に傍点]は早くも庭の木立の蔭へかくれると、
 お絹は廊下を二足三足、
「福村が帰って来たようです」
「ちぇッ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は木蔭でいまいましがる。

「奥様、奥様」
「おとうかい」
 暗いところを摺足《すりあし》して歩いて来るのは、女中のおとうに違いありません。
「はい」
「お前、どこへ行っていたの」
「ちょっと、表までお使に行って参りました」
「だまって行っては困るじゃないか」
「どうも済みませんでした。あの、奥様……さっき、わたしが出かける時に、お家の裏の方にうろうろしている人影がありましたから、気味が悪うございました」
「だから、なおさらのことじゃないか……勝手元の締りをよくしてお置き」
「はい」
「それから、玄関の戸も、しっかり[#「しっかり」に傍点]錠をおろしておしまい」
「それでも、まだ旦那様がお帰りになりませんのに」
「多分お泊りだろう」
「左様でございますか」
「そうしてお
前へ 次へ
全85ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング