しきりに砂を集めて塔をこしらえているところへ、ヒョッコリと首を出したのが主人の道庵先生です。先生は子供たちの挙動をしきりにながめていたが、(無論、先生は酔っぱらっているのです)やがて突然、口を出して、
「みんな、そこで何をこしらえているんだい」
「何でもいいから黙って見ておいでよ」
「教えたっていいじゃないか」
涎《よだれ》を垂らさんばかりにして、子供の砂いじりをながめていた道庵を、子供たちは相手にしないから、道庵がまた首を突込んで、
「何をこしらえてるんだよう」
「だまって見ておいでってば」
「わかってらあ、胃袋をこしらえるんだろう」
「ははあだ、胃袋だってやがら。先生はお医者だもんだから、胃袋だなんていってやがら。胃袋なんかこしらえるんじゃねえやい、高級な芸術をこしらえてるんだい」
「高級な芸術?」
「そうだよ」
「それが高級な芸術てのかい」
道庵先生が、やかましくいうもんだから、子供がうるさがって、
「先生、あっちへ行っておいでよ」
「それでも、おれが見ると胃袋にしきゃ見えねえ」
「先生には、芸術がわからねえんだよ」
「ああ、芸術がわからないんだから、あっちへ行っておいでよ」
「だってお前たち、胃袋をこしらえて高級な芸術だったって仕方がないよ、それ胃袋じゃないか、胃袋の形をしているじゃないか」
といいながら、酔っぱらっている道庵先生は、子供たちが一生懸命でこしらえた砂の塔を、ひょい[#「ひょい」に傍点]と突っつくと、たちまちその塔がひっくり返ってしまったから、子供がムキになって怒り出しました。これは道庵先生、少々おとなげ[#「おとなげ」に傍点]ないことで、子供たちの怒り出したのにも無理のないところがあります。
「あ、先生が高級な芸術をひっくり返してしまった、悪い奴!」
「みんなして、先生を叩いてやろうよ」
子供たちが総立ちになって、道庵先生をとりまいて、
「ペチャ、ペチャ、ペチャ、ペチャ」
盛んに叩き立てましたから、道庵先生は羽織を頭からかぶって、
「こいつはかなわねえ」
人を殺すことにかけては、当時、道庵の右に出でるものはあるめえ、新撰組の近藤勇といえどもおれには敵《かな》わねえ、道庵の匙《さじ》にかかって命を落したものが二千人からあると、日頃勇気|凜々《りんりん》たる道庵先生も、この子供たちに逢っては一たまりもなく、ほうほうの体《てい》で門内へ逃げ込んでしまうと、やや離れてお手玉をとって遊んでいた女の子供たちまでが飛んで来て、
「先生を叩いてやりましょうよ」
「お土産《みやげ》三つに凧《たこ》三つ」
そこで、道庵先生をまたペチャ、ペチャと叩きました。
子供に叩かれて、ほうほうの体《てい》で家の中へ逃げ込んだ道庵先生は、座敷へ入ると、ケロリとして道中記をながめています。
道庵先生にとっては、今がその小康時代ともいうべきものでしょう。ナゼならば、先生の唯一の好敵手たる隣りの鰡八御殿《ぼらはちごてん》の主人公が、洋行から戻って来た暁には、またぞろ百五十万両もかけて、大盤振舞《おおばんぶるまい》をするにきまっていますから、それを見せつけられた日には、先生もまた相当の手段方法を講じなければならないはずですから。
ところがその鰡八大尽は洋行の留守中であり、江戸の武家は長州征伐というわけで、風雲の気はおのずから西に走《は》せてしまったようなあんばい[#「あんばい」に傍点]だから、先生もいささか張合抜けの体《てい》です。
そこで先生は、この余った力と機会とを利用して、五十日間の予定で、名古屋から京大阪を遊覧して来ようとの案を立てました。
先生が今度の旅程のうちに、特に名古屋を加えたというのは、先生独得の見識の存するところで、その意見を聞いてみると、先輩の弥次郎兵衛と喜多八が、東海道を旅行中に、名古屋を除外したというのが不平なのだ。
「べらぼうめ、太閤秀吉の生れた国と、金のしゃちほこを見落して、東海道|膝栗毛《ひざくりげ》もすさまじいや、尾張名古屋は城で持つと、雲助までも唄っていらあな、宮重《みやしげ》大根がどのくらい甘《うめ》えか、尾州味噌がどのくらいからいか、それを噛みわけてみねえことにゃ、東海道の神様に申しわけがねえ」
特に東海道の神様という神様があろうとも思われないが、これが先生の名古屋へ立寄る一つの理由となっているのであります。しかし、弥次郎兵衛と喜多八が名古屋を除外したからといって、故意にやったわけではなく、宮の宿から一番船で、七里の渡しを渡って、伊勢の桑名へ上陸の普通の順路を取ったまでだから、それをいまさらいい立てるのは、少し酷《こく》だと思われます。
それよりもこの際、京、上方の空気というものは、道庵先生などの近寄るべき空気ではないのですが、この先生のことだから、それをいえば、例のおれの匙にか
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