を別ってしまいました。七兵衛は、なお暫くとどまって、兵馬の去り行くあとを見送っていましたが、
「どうも、若い者のすることは、危なくって見ていられねえ、間違いがなければいいが」
と呟《つぶや》きながら、どこかへ消えてしまいました。

 七兵衛に別れた兵馬は、まことに宙を飛ぶ勢いで、吉原の火の中へ身を投げると、茶屋の暖簾《のれん》をくぐって、乾く舌をうるおしながら、東雲《しののめ》の名を呼んだのは間もないことであります。
「ナニ、東雲は病気?」
 逸《はや》りきった兵馬の胸に、大石が置かれたようです。
「そうして、どこに休んでいます」
 彼は病室まで、とんで行きかねまじき様子を、茶屋ではさりげなくあしらって、
「東雲さんは病気で休んでおいでなさいます、まあ、よろしいではございませんか、御名代《ごみょうだい》を……」
 兵馬は、そんなことは聞いておられない。
「東雲の宿というのはどこです」
「いいえ、そのうちにはお帰りになりますから、まあ、ごゆっくりと……」
「その宿というのを教えてもらいたい」
「さあ、それでは内所《ないしょ》でたずねて参りますから、ともかくお上りくださいまし」
「いいえ、拙者は別な人のところへ行きたくもなければ、行く必要もない、東雲がいなければ、このまま帰ります、帰って、その宿所をたずねて、病気を見舞わねばならぬ、また話しておいた大事な話の残りがある」
「それはずいぶん、御執念なことでございます、では内所へ行ってたずねて参りますから」
 暫くしてから、また戻って来た茶屋のおかみさんは、
「あの――主人が留守だものですから、東雲さんのお家がどうしても只今わかりません」
 兵馬は熱鉄を呑ませられたように思ったが、このうえ押すと佐野次郎左衛門にされてしまう。

         十六

 その夜のうちに宇津木兵馬は、ジリジリした心持で、本所の相生町の老女の屋敷へ帰って来ました。この老女の屋敷というのは、一人のけんしきの高い老女を主人として、勤王系の浪人らしい豪傑が出入りする大名の下屋敷のようなところ。
 そこで彼は自分の部屋へ来ると、どっか[#「どっか」に傍点]と坐り込んで、懐中から畳の上へ投げ出したのが、宵のうち浅草の五重の塔下で、七兵衝から与えられた金包です。
「兵馬さん、お帰りになりまして?」
とそこへ訪れたのはお松であります。
「いま帰りました」
「お茶を一つお上りなさいまし」
「有難う」
 お松は丁寧に兵馬にお茶をすすめたが、兵馬の浮かぬ面色《かおいろ》をそっとながめて、
「どちらへおいでになりました」
「エエ、あの……」
 なにげないことでも、お松にたずねられると針の莚《むしろ》にいるような心持がします。
「直ぐにお休みになりますか、それとも何か召し上りますか」
「いいえ、何も要りません……あの、お松どの、そこへ坐って下さい。あなたにはこの頃中、絶えず心配をかけていた上に、少なからぬ借金までしておりました。今日はこれを預かっておいて下さい」
といって、兵馬が改めてお松の前に置いたのは、例の金包です。
「ええ? これを、わたしがお預かりするのですか?」
 お松は、その金包をながめて合点がゆかない様子。それは、この頃中の兵馬は、ずいぶん金に飢えているように見えるのに、今ここで突然に投げ出した金は、どう見ても今のこの人の手には余りそうな重味があります。
「預かっておいて下さい」
「お預かり申してよろしうございますが……数をお改め下さいまし」
「数をあらためる必要はありません、そのまま、あなたにお預け申します」
「いいえ、どうぞ、わたしの前で数をおあらため下さいまし」
「それには及びません」
「兵馬様」
 お松は、あらたまって兵馬の名を呼びました。兵馬は答えないで、火鉢の前にじっと俯《うつむ》いている様子。
「夜分、こんなに遅く、これだけのお金をただ預かれとおっしゃられたのでは、わたくしには預かりきれないのでございます、そう申し上げてはお気にさわるかも知れませんが、このごろは何かの入目《いりめ》で、わたくしたちの目にさえお困りの様子がありありわかりますのに、今晩に限って、これだけのお金を持っておいでになったのが、わたくしにはかえって心配の種でございます」
「いや、この金は決して心配すべき性質の金ではありません、ちと入用《いりよう》があって、人から融通してもらったところ、急にそれが不用になったから、あなたに預かっておいてもらいたいのです、金高は三百両ほどあると思います」
「どなたが、その三百両のお金を、あなたに御融通になりましたのですか」
 自分の貯えも、お君の貯えも、一緒にして融通してしまったほどの兵馬の身に、忽《たちま》ち三百両の金を融通してくれるほどの人がどこにあるだろう。それを考えると、お松は兵馬の心持が、怖
前へ 次へ
全85ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング