てしまったものですから、遽《にわか》に発心《ほっしん》して、ついに仏道に入ったというところをかいたもので、あのお稚児《ちご》さんは、その晩泊った旅人、実は観世音菩薩の御化身《ごけしん》が、強慾《ごうよく》な老婆をいましめの方便ということになっているのです」
人だかりは崩れて、どやどや[#「どやどや」に傍点]とお神籤場《みくじば》の方へ行ってしまったあとに、兵馬は、十徳の老人の後ろに、まだ額面をながめています。
十徳の老人が、額面を、それからそれと見て歩いているから、兵馬とは後になり、先になり、重なり合って立ちどまることもあります。
二人が、また重なり合って立ちどまったのは、以前の柱よりは少し右の方、菊池容斎の描いた武人の大額の下。
「卒爾《そつじ》ながら、これは何をかいたものですか」
と兵馬は突然にたずねてみますと、老人は、ちょっ[#「ちょっ」に傍点]と驚かされて振返ったが愛想よく、
「これは、御廐《おんまや》の喜三太《きさんだ》を描いたものですな」
「ははあ」
「鎮西八郎、鎮西八郎」
そこへ、また押しかけて来た二三の若い者。
「やあ、鎮西八郎、豪勢だな。あの弓でもって、伊豆の大島で、軍船《いくさぶね》を一つひっくり[#「ひっくり」に傍点]返したんだから豪勢だ」
「何しろ、鎮西八郎ときちゃあ、日本一の弓の名人なんだから」
この連中は、額面の前で、しきりに勇み足を踏んで立去りましたが、その後で、例の十徳の老人は笑いながら兵馬を顧みて、
「あの国芳の額を安達ヶ原と納まって見る人と、これを鎮西八郎に見立てて帰る者が多いのですよ……どうです、この筆力の遒勁《しゅうけい》なことは。容斎は豪《えら》いです。国芳の石枕も出色な出来ですが、こうして並べて見ると格段の違いがありますね」
ちょうど、延宝年間に納めた魚河岸《うおがし》の大提灯を斜めにして、以前の国芳が全体を現わしているところ。老人の説明半ばで、兵馬は内陣の前に手を合わせている吉原芸者らしい女の姿へ眼を奪われてしまいました。濡羽《ぬれば》のような島田に、こってり[#「こってり」に傍点]と白粉の濃い襟足を見ると、ゾッとして、あこがれている脂粉《しふん》の里に、魂が飛び、心が悶《もだ》えてきました。
七兵衛が遅い――遅いのではない、自分が早過ぎるのだと思い返してみると、いつのまにか十徳の老人は額面の前を去って在らず。自分は空しくその額面を仰いで見たが、早過ぎたといっても、もう日は廻って、薄暗い堂内の空気は糢糊《もこ》として画面を塗りつぶしています。
そこで兵馬は、やはり渦巻く参詣人の中を泳いで、堂の外へ出てみました。それにしてもまだ早い、どこで暇をつぶそうか知らん。本堂を経て三社権現をめぐり、知らず識らず念仏堂の方へ歩みをうつすと、松井源水が黒山のように人を集めて居合《いあい》を抜いている。それにもあまり興が乗らず、去って豆蔵《まめぞう》を覗《のぞ》いたり、奥山の楊弓《ようきゅう》を素通りしたりしているうちに、日が全く暮れて、兵馬は約束の五重塔の下へ来てみると、
「宇津木様、お待ち申しておりました」
その声を聞くと兵馬は、飛び出つ思いです。
今日は七兵衛が笠もかぶらず、合羽も着ず、着流しに下駄穿きで、近在の世話人が、公事《くじ》で江戸へ出向いて来たような風采《ふうさい》。
「お約束のお金を、ここへ持って参りました」
といって、懐ろから風呂敷包を取り出す。
「これはありがとう、なんともお礼の申しようがありませぬ」
実際、兵馬は夢のように喜びました。今まで半信半疑とはいうものの、疑いの方が先に立つもどかしさ[#「もどかしさ」に傍点]が一時にとれてしまったので、その包を受取ると、もう足が小躍《こおど》りして、じっとしていられない思いです。
「御自由にお使い下さいまし。しかし、申し上げておきませんければならないことは、もし、そのお金の出所《でどころ》を人から問われるようなことがありましても、七兵衛の手から出たということは、決しておっしゃらないように……それと、もう一つは、先日申し上げました通り、お松というもののことをお忘れ下さらないように――」
「万事、心得ています」
兵馬は七兵衛の言葉もろくろく耳には入らない。
「それでは、私も急ぎの用事がございますから、これでお暇を致します……」
「拙者《わし》もこうなった上は一時も早く……」
「お待ち下さいまし」
七兵衛はなお念を入れて、
「それから兵馬様、もし何かまた御相談事が出来ましたらば、私は明後日《あさって》まで馬喰町《ばくろちょう》の大城屋というのに逗留《とうりゅう》をしておりますから、甲州|谷村《やむら》のおやじとでもおっしゃっておたずね下さいまし」
兵馬は、それも耳へは入らないで、ついにこの場で七兵衛と袂《たもと》
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