、府中の六所明神の前を五六人のさむらい[#「さむらい」に傍点]に囲まれて、一散に東へ向って急いだ黒い乗物と、もう一つは……ほぼそれと同じ時刻に、八王子の大横町から日光街道を北へ走った、やはり黒い一挺の乗物だ、この三つがどうも合点《がてん》のゆかねえ乗物だと思っているが、がんりき[#「がんりき」に傍点]、お前の捜している見当はどれかそのうちの一つだろう」
「違《ちげ》えねえ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は額を丁《ちょう》と打って、
「この間の晩、小名路《こなじ》の宿を通ると、雲助連中が、小仏へ天狗が出た、天狗が出たというから、よく聞いてみると、なんのことだ、天狗というのは、おおかた兄貴のことだろうと俺だけに察しがつくと、おかしくってたまらなかった。ところで、兄貴、その三つのうちのドレが本物だか、そこんところをひとつ後生だから!」
「三つとも見ようによれば、みんな本物だろうじゃねえか」
「世話が焼けるなあ、がんりき[#「がんりき」に傍点]はなにも親の敵《かたき》をたずねてるんじゃありませんぜ」
「俺の知ったことじゃねえ、爪先の向いた方へ勝手に行ってみろ」
 七兵衛が取合わないで、再び鍬の柄を取って地均《じなら》しにかかると、がんりき[#「がんりき」に傍点]はそれを黙って暫く見ていたが、
「なるほど、こりゃ聞く方が野暮《やぼ》だった、おっしゃる通り、爪先の向いた方へ行ってみることにしよう、兄貴、さよなら」
といって、さっさ[#「さっさ」に傍点]と松の木の間へ姿を隠してしまったから、七兵衛はその後ろ影を見送って、
「野郎、気味の悪いほど素直に行っちまやがった」
 本来なら、掘り出した一品に何か因縁《いんねん》をつけて行くべき男が、一言《ひとこと》もそれに及ばずして行ってしまったから、かえって七兵衛が手持無沙汰の体《てい》です。

         十五

 宇津木兵馬は、七兵衛の約束を半信半疑のうちに、浅草の観音に参詣して見ると、堂内の巽《たつみ》に当る柱で噪《さわ》いでいる一かたまりの人の声。
「ははあ、あれが安達《あだち》ヶ原《はら》の鬼婆《おにばばあ》だ、よく見ておけよ、孫八」
 一勇斎国芳の描いた額面を見上げている。今に始まったことではない。「安政二年|乙卯《きのとう》仲春、為岡本楼主人之嘱《おかもとろうしゅじんのしょくのため》、一勇斎国芳写」と銘を打った一《ひと》ツ家《や》の額面。それを巽の柱の下に群がった一かたまりが熱心にうちながめて、
「あの鬼婆の憎い面《つら》を見ろ、あの出刃庖丁で女の腹を割《さ》いて、孕児《はらみご》を食い物にするところだあ、孫八」
「憎い婆!」
 褐色《かちいろ》の着物に黒い帯をして、尻端折《しりはしょ》りをし、出刃をかざした形相《ぎょうそう》ものすごい老婆の姿に、憎しみの眼を投げると共に、その腰にすがっている振袖を着た可憐な乙女に、痛々しい同情の眼を向けない者はない。
「あの、眼をつぶっているお稚児《ちご》さんは、ありゃ何だろう」
といったが、急にそれに返答を与えるものがありません。
 つまり、女の腹を割いて、その孕児《はらみご》を見るという安達ヶ原の鬼婆は、今その携えた出刃庖丁で、あの可憐な振袖を着た乙女を、犠牲《いけにえ》の俎板《まないた》に載せようとしている瞬間と見ていると、自然その左手に気高くほおづえついて眠っている稚児髷《ちごわ》の美少年が、よけいな物になって、説明に行詰まってしまいます。それでも一同は額面そのものに堪能《たんのう》して、一心にながめていると、
「あれは安達ヶ原の鬼婆の絵ではありませんよ」
 従来の説明を一挙に覆《くつがえ》したのは、宗匠頭巾《そうしょうずきん》をかぶって、十徳《じっとく》を着た背の高い老人。やや離れたところに立っておりました。
「え、あの憎らしいのが、安達ヶ原の鬼婆ではありませんのですか」
「ええ、安達ヶ原の鬼婆とは違います、よくあれを見て、間違えてお帰んなさる人がありますよ」
「へえ、そうですか、ありゃ鬼婆じゃねえのだとさ」
「そうですか」
 十徳の老人は、気の毒に思って、
「あれはねえ、石の枕の故事をうつしたものなんで。昔、この界隈《かいわい》がまだ草茫々としていた時分に、この近所にあの婆さんが住んでいたものです。こっちにいるのは婆さんの一人娘なんですが、この娘が容貌《きりょう》よしだもんですから、往来の人を連れ込んで泊らせ、石の枕へ寝かしておいて、寝ついた時分に、その旅人の頭を、あの鉈《なた》で砕いて……出刃ではありません、鉈でしょう、そうして持物を奪い取ることを商売にしていたのです。娘がそれをあさましいことに思って、自分が旅人の装《なり》をして身代りに立ち、婆さんの手で殺されてしまったのです。さすがの鬼婆も、間違って自分の最愛の娘をころし
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