ろしいもののように思われてなりません。
「誰でもいいではないか、わしを信用して融通してくれた人の金、それを、あなたに預かってもらうのに、誰へも憚《はばか》ることはありますまい。拙者は、その金をあなたに預けるばかりではない、あなたのいいように処分して使ってもらいたい、お君さんへの借りもその中から返して下さい……遠慮はいりません。それでもなお納得《なっとく》がゆかないならば、わしにその金を融通してくれた人の名をいいましょう。それは、そなたのおじ[#「おじ」に傍点]さんの七兵衛の手から出たものじゃ、わしはこれからあの人を訪ねて、相談をして来ようと思うことがあります」
宇津木兵馬は金包をお松に託しておいて、もうかなり夜も遅いのに、またも外出してしまいました。多分、じっとしてはいられないことがあるのでしょう。あるはずです。
お松やお君の金さえも融通してもらい、自分の差料《さしりょう》をさえ売ろうとした身が、忽ち三百両の金を不用として投げ出して行ってしまったのは、それと共に、絶望に帰するものがあればこそです。
東雲《しののめ》が病気で親許《おやもと》へ戻っているというのは嘘だ、身請《みう》けをされてしまったのだ、という暗示は、馬鹿でない限り合点《がてん》のゆかねばならぬことです。この絶望と、今までの自分の血迷いかげん。相手は、情を売るのが商売の女で、請け出す人は、金に糸目をつけることを知らない楽隠居である。部屋住みの、修行中の自分が、その中に入って歯が立つものではない――それをいま悟っても、人には相当に未練というものがある。兵馬は多分、これから思い起した七兵衛の言葉の端をたどって、馬喰町《ばくろちょう》の大城屋というのへ相談に行くのかも知れない。
しかし、気の毒なのは出て行った兵馬よりも、残されたお松であります。
大菩薩峠の上で、祖父は殺され、自分は知らぬ旅の人に助けられて、箱根の湯本で湯治《とうじ》している時に蒔《ま》かれた二人の縁が、本郷の妻恋坂の雨やどりで芽ぐみ、その後、自分は京の島原の生活から花園のわび住居《ずまい》、京都、大和路の間でも絶えず頼りつ頼られつして来たその人は、親しみが余りあるのに、情というものを知らない人であった。いちずに目的に向って他目《わきめ》も振らないのが物足りないだけ、それだけ頼もしいと思っていたのに――
今となって、こういうことにしてしまったのは自分が至らないからだと、お松は残念でたまりません。お松はまたこんなことも、内々|気取《けど》りもし、聞いてもいたのです。それは自分を養女として仕込んでくれたお師匠様のお絹が、兵馬を誘惑したことも一度や二度ではなかったこと。お君でさえが、一時は兵馬にぽーっとしていたこともある。そういう誘惑が数々あるのに、それを受けつけなかった兵馬の一徹なところは、自分としても暗《あん》に勝利のほほえみを以て迎えていたのに、今となって、色を売る女風情《おんなふぜい》に、あの人の心全部を奪われてしまったとなると、お松の気象では、泣いても泣き足りないほどの口惜《くや》しさがあるのも無理がありません。
果して誰の力でも、兵馬さんを、もとの人にすることはできないのか知らん。七兵衛のおじさんは旅にばかりいて落着かないし、今、兵馬さんが、先輩として敬服しているのはここの南条先生であるが、あの先生もあんまりたより[#「たより」に傍点]ない。兵馬さんを指導する恩人として見てよいのか、或いは兵馬さんをダシに使って嗾《そそのか》しておられるのか、もう少し手強《てごわ》い意見をして下されたら……お松はあまりの残念さに、つい人を怨んでみる気にもなりましたが、どう考えても口惜涙《くやしなみだ》を抑えることができません。
ぜひなく、その金包を抱いて、泣く泣く廊下を伝って自分の部屋へ歩いて来ると、途中で後ろからその肩を叩いたものがあります。
「お松どの、宇津木にも困ったものだな」
それは南条力の声であります。
「はい」
お松は返事をしながら、しゃくり上げてしまいました。
「しかし、あれも馬鹿でないから醒《さ》める時があるだろう、偽《いつわ》りの情から醒めてみねば、真実の旨味《うまみ》がわからん、どのみち、真実なものが勝つのだから、あまり心配せんがよい」
「有難うございます」
とはいったが、それもお松には、一時の気休め言葉のように思われて、自分の部屋へ転げこむと、金包を抱いて散々《さんざん》に泣きました。
まもなく庭を隔てた一間の障子にうつる影法師は、今の南条力。
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秀《ひい》でては不二《ふじ》の岳《たけ》となり
巍々《ぎぎ》千秋に聳《そび》え
注《そそ》いでは大瀛《たいえい》の水となり
洋々八州をめぐる……
[#ここで字下げ終わり]
案《つくえ》によって微吟し、そぞろ
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