へえ、どなたでございますか、まことに申しわけがございません」
 せっかく、曲も終りに入ろうとする時に、正直な弁信法師は、撥《ばち》をとどめて返事をしました。
「申しわけがございませんじゃない、断わりなしに社《やしろ》のお庭へ闖入《ちんにゅう》しては困るじゃないか」
「まことに申しわけがございません……」
 弁信法師は琵琶を蓆《むしろ》の上にさしおいて、さて徐《おもむ》ろに弁明を試みようとする態度であります。
「申しわけがないと悟ったら、早く出て行かっしゃい」
 長い竿で、弁信の頭をつつこうとします。
「ええ、少々、お待ち下さいまし、ただいま、立退きまするでございます……立退きまするについては、一応お話を申し上げておかなければなりませぬ。それと申しますのは、わたくしはこうやって、お断わりを申し上げずにお庭を汚《けが》して拙《つたな》い琵琶を掻き鳴らしましたのは、なんとも恐れ入りましたことでございまする。ただいまやりましたのは、お聞きでもございましょうが、平家物語のうちの旧都の月見の一くだりでござりまする。お聞きの通り拙い琵琶ではござりまするけれども、これでもわたくしが真心《まごころ》をこめて、六所明神様へ御奉納の寸志でござりまする。昔、妙音院の大臣《おとど》は、熱田の神宮の御前で琵琶をお弾きになりましたところが、神様が御感動ましまして、霊験が目《ま》のあたりに現われましたことでござりまする。また平朝臣経正殿《たいらのあそんつねまさどの》は、竹生島明神《ちくぶじまみょうじん》の御前で琵琶をお弾きになりましたところが、明神が御感応ましまして、白竜が現われたとのことでござりまする。わたくしなんぞは、ごらんの通りさすらいの小坊主でございまして、無衣無官は申すまでもございません、その上に、お心づきでもありましょうが、この通り目がつぶれているのでござります、目かいの見えない不自由なものでございます、それに、琵琶とても、節《ふし》とても、繰返して申し上げるまでもなく、お聞きの通りの拙いものでございますから、とても神様をお悦ばせ申すのなんのと、左様なだいそれた了見《りょうけん》は持っておりませんのでござりまする。ただまあこうも致しまして、わたくしの心だけが届きさえ致せば、それでよろしいのでございますから、もう暫くのところお待ち下さいませ、せめてこの一くさりだけを語ってしまいたいのでご
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