たために、お吉のところで毒気が廻ってしまったのだ。それに心を乱されたのはこっちの落度といわばいえ、あのロクでなしが、わざわざこのところを突留めて出向いて来たのは、そもそもこの神尾を、何かのダシに遣《つか》おうとの魂胆でなければ何だ。癪《しゃく》にさわる小悪党め、憎むには足らない奴だが、見たくもない。主膳はこう思って、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵という奴が癪にさわってたまらないから、
「会えない、当分会えないから帰れといってくれ」
 主膳は、又六に向って、素気《そっけ》なくいいました。又六は、とりつく島がないから、
「はい」
といって、腰を浮かすだけです。
 又六が帰ると、行燈《あんどん》を点《とも》して来た小坊主の面《かお》を、主膳はすごい眼をして睨《にら》みつけたから、小坊主が怯《おび》えました。
「あのな、お前、用が済んだら門番のところまで頼まれてくれ。お吉が病気になったそうだが、加減はどうか、悪くなければ、お吉にちょっと来てくれるようにいってくれ」
「畏《かしこ》まりました」
 小坊主はおびえながら、承知して行ってしまいます。
 しかし、暫く待ってもお吉はやって参りません。主膳はその時|焦《じ》れてもみましたが、またかわいそうだとも思いました。しかしまた、来なければ来ないように言いわけがありそうなものを、小坊主はその返事をすら齎《もたら》さない。忘れたのか、ズルけたのか。
 その時分、庭で、けたたましい人の声。
「え、油坂で転んだ? それは誰だエ。気をつけなくちゃいけねえ。エ、誰が転んだのだエ?」
「又六さんが転んだんですよ」
「エ、又六がかい。何たらそそっかしいことだ、慣れているくせに」
 噪《さわ》ぎ立てた問題は、単に、又六が油坂で転んだというだけのこと。
 主膳は、そこでまたカッとしました。油坂は転んではならないところ。そこは、やはり大中寺七不思議の一つ。
 本堂から学寮への通路に当る油坂。昔は、そこを廊下で通《かよ》っていた。いつの頃か、学寮に篤学な雛僧《すうそう》があって、好学の念やみ難く、夜な夜な同僚のねしずまるを待って、ひそかに本尊の油を盗んで来て、それをわが机の上に点《とも》して書を学んだ。本尊の油の減りかげんが著《いちじる》しいので、早くも番僧の問題となった。これは必定《ひつじょう》、狐狸のいたずらに紛れもない、以後の見せしめに懲《
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