礼の真似事をしながら、ジロリと駕籠の方を見ましたが、あいにくに提灯をこっちへ持って来ていたものだから、横目でジロリと見たぐらいでは、思うように見当がつかないらしい。
「どう致しまして」
 そこで旅人は、煙草をくゆらして、お別れをしようとしたが、また何か思いついたもののように、
「若い衆さん、お気をつけなさいましよ、やがて霧が捲いて来ますぜ」
「え、霧が……こんな雨上りの月夜にですか?」
「そうですよ、町の真中でさえ霧に捲かれると、方角を間違えますからな、ことに山路で霧に捲かれては、いくら慣れておいでなすっても、困ることがありますからね」
「そうですかねえ」
 駕籠屋は、いよいよ解《げ》せぬ色で、その忠告を聞き流していたが、なあーに、こんな雨上りの月夜に、そう急に霧が捲くことがあるものかと、たかをくくってそれにはあえて驚きもしなかったが、やがて、
「あッ!」
と驚かされたのは、いま立去った旅人の挙動です。つい、たった今、そこで煙草の火をつけて、霧の起るべき予告をしておいて立去った旅人は、早や眼を上げて見ると、二十八丁の頂《いただき》に、豆のような形を消して行くところです。
「今の人が、もうあすこまで行った」
「あッ!」
と若いのが青くなったのは、今も今の話、天狗様の夜歩きを、この男は生涯に二度見たからです。二人の見合わせた面は真蒼《まっさお》です。
「さあ、いけねえ」
 慄《ふる》えがとまらないでいる。この時遅しとでもいおうか、谷と沢の間から、徐々として白いものが流れ出すと、峠や峰の横合いからも、ひたひたとその白いものが流れ出して来るのです。
 気のついた時分には、月の光も隠れておりました。
「さあ大変! 天狗様のお告げ通りになったぞ」
 彼等は、いま立去った旅人を人間とは見なかったように、いま捲き起った霧を、単純な天変とは見ることができないで、戦《おのの》きはじめました。
「旦那様、旦那、どう致しましょう、いっそ駕籠《かご》を戻しましょうか、それとも千木良《ちぎら》の方へでも下りてしまいましょうか」
 根が正直な土地の駕籠屋だけに、まじめになって駕籠の中の客に相談をかけると、その理由を知ることのできない竜之助は、
「どうして」
「今晩は、いけない晩でございますよ」
「何がいけない」
「お聞きになりましたか、今、怪しい旅の人が、煙草の火を借りて参りました、それが、その
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