、ただの人ではないのでございます」
「ただ人《びと》でない?」
「ええ、さきほどもお話し致しました通り、この高尾のお山には、昔から天狗様が棲《す》んでおいでなさるのです、そうして今の旅人がたしかに、その天狗様に違いありません」
「ばかなことをいうな、拙者もここでその旅人のいうことをよく聞いていたが、人間の声だ」
「左様でございます、言葉だけをお聞きになったんでは、ちっとも人間と変りはございません、また姿を見たって人間とちっとも変りはございませんが、旦那様、歩くところをごらんになれば、直ぐわかります」
「何か変った歩きつきをして見せたか」
「変ったどころではございません、今ここで煙草の火をつけて、霧が捲くから用心しろとおっしゃったかと思うと、もう二十八丁目の天辺《てっぺん》へ飛んで行ってしまいました」
「羽が生えて飛んで行ったのか、足で歩いて行ったのか」
「それは、よく見届けませんでしたが、二人がこうして傍見《わきみ》をしているかいない間に、もうあすこまで一飛びに飛んで行ったんですから、おおかた羽が生えたんでしょう」
「心配することはない、ずいぶん世間には足の迅《はや》い奴があるものだ、人間業《にんげんわざ》とは思えないほどに迅い奴があるものだ、そういう奴が、よく山道の夜歩きなぞをしたがる」
「足の早いといったって旦那、たいてい相場がありましょう、今のあの旅人なんぞは……」
「たとい、天狗にしろ、お前たち、なにも天狗に申しわけのないほど悪いことをしているわけではあるまい」
「いいえ、論より証拠でございます、天狗様がお知らせになった通り、晴れた月夜が、このように霧になってしまいました」
「かまわず目的通りの道を行くがよい」
「でも旦那、ほかの者と違って、相手が天狗様じゃかないません」
「お前たち、天狗に借金でもあるのか」
「御冗談をおっしゃってはいけません、罰《ばち》が当ります」
「罰は拙者が引受けるから、かまわずやってくれ」
「行くには行きますがね」
二人の駕籠屋は怖々《こわごわ》ながら棒に肩を入れました。どのみち、進むか退くかせねばならぬ運命を、ぼんやり立っているのはなお怖いような心持がする。最初のうちは、彼等が仰天したほど深くはなかった霧が、歩き出すにつれて、歩一歩と深くなりまさってゆくようです。やがては峰も谷も、すすきも尾花も一様に夜霧に蔽《おお》われて、人も
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