旅人の風《なり》をしていたんだが、その足の迅《はや》いこと……すっとすれ違ったと思ったら、あの地蔵辻から、もう大見晴らしの上に立っていたのにおったまげて、あの時ばかりは動けなくなっちまったよ」
六
その地蔵辻の上へ駕籠を置いて、駕籠屋は一息入れています。
蜿蜒《えんえん》として小仏へ走る一線と、どこから来てどこへ行くともない小径《こみち》と、そこで十字形をなしている地蔵辻は、高尾と小仏との間の大平《おおだいら》です。
四方に雲があって、月はさながら、群がる雲と雲との間を避けて行くもののように、景信《かげのぶ》と陣馬《じんば》ヶ原《はら》の山々は、半ば雲霧に蔽《おお》われ、道志《どうし》、丹沢《たんざわ》の山々の峰と谷は、はっきりと見えて、洞然《どうぜん》たるパノラマ。その中に置き据《す》えられた一つの駕籠。
机竜之助は、その中に、堀河の国広を抱いて、うっとりと眠るともなく、醒《さ》めるともなく、天狗様の怪異談まで聞いて、駕籠のとどまったことを夢心地に覚えていると――
その時、不意に風でも吹き起ったもののように、サーッと尾萱《おがや》の鳴る音が、行手ではなく、自分たちが今たどって来た道筋から起ったかと思うと、月影に見ゆるのは、旅人らしい一箇の人影です。
「今晩は」
その人影は早くも、休んでいた駕籠の傍へ来た。先方から挨拶の言葉で、二人の駕籠屋があわてました。
「今晩は」
「いいあんばいに、雨があがりましたね」
「ええ、いいあんばいに雨があがりましたよ」
「どちらへおいでになりますね」
「ええ、上野原の方へ。急病人がありましたのでね」
「それは、それは」
といって、旅人はお辞儀をして、その駕籠のわきの細道を通りぬけようとして、また踏みとどまり、
「済みませんが、火を一つお貸しなすって下さいまし」
「さあ、どうぞ」
この旅人は、棒鼻の小田原提灯の中の火が所望と見えて、懐ろから煙草入を出すと、その面《かお》を提灯の傍へ持って行きました。駕籠屋は心得て提灯を外《はず》して、その旅人の鼻先に突きつけてやりながら、その面を見るとかなりの年配で、堅気の百姓のようでもあるし、何か一癖ありそうにも見えますが、物ごしは最初から丁寧で、好んでこの夜道を突切りたがる男とは見えません。
「いや、どうも有難うございました」
吸いつけた煙草をおしいただいて、お
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