しか、老杉の境を出でて樺木科《かばのきか》の密林をよぎると、そこから、すすき尾花の大見晴らしの頭が現われます。
「すっかり晴れちまったね。いいお月見ですよ、旦那様」
駕籠屋がいい心持で天を仰いで、雨あがりの雲間の冴《さ》えた月をながめて、その気分をいささかながら駕中《がちゅう》の人に伝えようとする好意で、
「ここのお月見は格別ですね、何しろ十二カ国が一目で見渡せるんですからね」
駕籠は、すすき尾花の大見晴らしを徐々《しずしず》と押分けて進むと、五十丁峠のやや下りになります。少しく下ってまた蜿蜒《えんえん》として、すすき尾花の中に見えつ隠れつ峰づたいに行く道が、すなわち小仏の五十丁峠。もし昼間にこれを通るならば、身の丈を蔽《おお》いかくすほどの、すすき尾花の路のつい足もとから、バタバタと雉子《きじ》や山鳥が飛び出して、幾度か旅人を驚かすのですが、夜はすべての鳥が、その巣に帰っていると見えて、悠長な駕籠屋を驚かすほどの物音もなく、五十丁峠を七八丁ほど来て、また小高い峰の頂にかかった時、
「向うのあの松林の中で、変な火の色が見えたぜ」
「え、松林の中で?」
二人の駕籠屋はいい合わせたように、大だるみ[#「だるみ」に傍点]の方面へ走った峰つづきの松原の方を眺めました。
「なるほど」
「何だろう、あの火は」
「提灯でもなし」
「焚火でもなし」
駕籠の中で、それを聞いていた竜之助は、むらむらと昨夜《ゆうべ》の夢を思い起しました。その松林には、はるばると甲州の白根の奥から来た肉づきの豊かな年増《としま》の山の娘がいて、その火は、温かい酒と松茸《まつたけ》を蒸しているのではないか。
「こっちへ来るようでもあるし、あっちへ行くようでもあるし」
「いやな色をした火だなあ」
駕籠《かご》の歩みが、こころもち遅くなったのは、すすき尾花の丈がようやく高くなって、歩みわずらうせいでしょう。
「だけんど、おれはこの道でおっかねえと思ったのは、たった一ぺんきりさ」
と前棒《さきぼう》の若いのが、おじけがついて、強がりをいってみたくでもなったもののようです。
「そりゃあ、どうしてだ」
「高尾の山には天狗様がいるという話だが、おれは、三年ばかり前の晩景《ばんげ》、この通りでその天狗様にでっくわしてしまった。なあに、鼻も高くはないし、羽団扇《はうちわ》もなにも持っちゃいなかったし、あたりまえの
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