からなくなっちまった」
宇治山田の米友は、両国橋の真ン中の欄干《てすり》の前に突ッ立って、
「何が何だか、おいらの頭じゃわかりきれなくなった。来世《らいせ》というのはいったいどこにあるんだ。ナニ、魂だけが来世へ行く? さあ誰がその魂を見た、その魂が来世とやらへ行って何をしているんだ。ナニ、この世で苦労したものが来世で楽をする? 誰がそれを見て来たんだ、魂が来世へ行って何を働いているか、見届けて来た人があるなら教えてくれ、後生《ごしょう》だから……今まで生きてたものが死んじまった、ただそれだけか。花は散りても春は咲く、鳥は古巣へ帰れども、往きて還らぬ死出の旅……今、それがひとごとじゃねえんだぞ、ほんとうに死んだ奴が一人あるんだぞ。ナニ、誰か殺したんだろうって? 冗談じゃねえや……ナニ、米友、お前が苛《いじ》め殺したんだろうって? ばかにするない。そうでなければ駒井能登守の奴が殺したんだろうって? 何をいってやがるんだい、何が何だかこの頭じゃわからねえや」
宇治山田の米友は、狂気の如く同じところを飛び上っています。
二十五
栃木の大中寺に逼塞《ひっそく》の神尾主膳は、このごろは昔と打って変った謹慎の体《てい》であります。
謹慎でなければならぬように、すべての都合が運んでいるところへ自分もまた、つくづくと半生の非を悟った。これからの生涯を蒔《ま》き直そうかと考えているらしい。
この男は、悪友と酒癖《しゅへき》さえなければ、転回の余地がないという限りはない。今、斯様《かよう》にかけ離れたところに来ていれば、悪友の押しかける憂いもなし、酒は自ら悔いているくらいだから、断じて盃を手に取らぬという堅い決心をきめているのです。それに、悪友と酒癖とからこの人を遠ざけた一つの大きな理由は、例のお喋り坊主の弁信を、巣鴨の化物屋敷で井戸の中へ投げ込もうとした時に、釣瓶《つるべ》が刎《は》ねて受けた傷、眉間の真ン中に牡丹餅大の肉を殺《そ》ぎ取られて、生れもつかぬ形相《ぎょうそう》となってしまった。それ以来、世間へこの面《かお》を曝《さら》すことが業腹《ごうはら》で、思いきって旧領地の縁をたどり、ここへ引込んでしまったのだから、今の謹慎も実は、その面部の大傷がさせた業《わざ》と言うべきものです。それと、もう一つは、財政がもはや全く枯渇して、化物屋敷の類焼以来は、
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