まもなく、この邸の裏門から驀然《まっしぐら》に走り出だした宇治山田の米友は、相生町を真一文字に、両国橋の袂《たもと》まで飛んで来て、
「これこれ、どこへ行く」
 橋際の辻番の六尺棒で行手を支えられた時、
「間の山へ行くんだ」
「何だ……」
「間の山……じゃなかった、小石川へ帰るんだ」
「小石川のどこへ」
「この提灯《ちょうちん》を見ねえな」
 突き出してみたけれども、あいにくのことに、その提灯に火が入っていません。
「ちぇッ」
 杖槍と、提灯とを、ひっかかえて来たけれども、この提灯へ火を入れることを忘れていた。
「どこから来た」
 辻番は穏かならぬ面色《かおいろ》で咎《とが》めると、米友は舌打ちをしながら、
「相生町の御老女の屋敷から来て、小石川の伝通院の学寮へ帰るんだ、火を貸しておくんなさい」
 米友は火の入っていない提灯を、辻番所まで持ち込むと、
「それ」
 ちょっと億劫《おっくう》がった辻番が、投げ出すように火打道具を貸してくれる。
「カチカチ」
「ちぇッ」
「カチカチ」
 燧《ひうち》を打つ手先が戦《わなな》いて、ほくち[#「ほくち」に傍点]を取落してはひろい上げ、ようやく附木にうつすとパッと消える。
「ちぇッ」
 焦《じ》れ立った米友の挙動を見ていた辻番が、
「それでは燧金《ひうちがね》がさかさだ」
「ええいッ」
 やっとのことで火は提灯へ入ったが、手先が、やはりわなわなとふるえている。
「なるほど」
 辻番は提灯に現われた「伝通院学寮」の文字をありありと読んで、やや得心が行ったように、
「何を慌《あわ》てているのだ」
 米友の挙動には、不審が晴れない。
「何でもねえんだ、どうも有難う」
 そうして走り出すと、
「おい、待たっしゃい」
 呼び留めた辻番、振返った米友。
「何か包を落したぞ」
「うむ、そうだ」
 辻番が拾ってくれた帛紗《ふくさ》づつみを、手早く受取って懐ろへ捻《ね》じ込む。
「気をつけて歩かっしゃい」
 辻番も、米友の挙動を合点《がてん》ゆかないとは思ったが、出て来たところが老女の屋敷で、行先が伝通院ということに諒解を持ったものと見えて、跡を見送っただけである。一目散に両国橋の上を走り渡った宇治山田の米友が、
「往きて還らぬ死出の旅」
 そこで、ピッタリと足をとどめて、
「さあ、わからなくなった、前と後ろがわからなくなっちまった、右と左もわ
前へ 次へ
全169ページ中104ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング