いけないよ、君」
絵師は落着いているけれども、米友はムカムカと来ました。いつぞや金助という男は、この手で米友を嘲弄《ちょうろう》して、両国橋から大川へ投げ込まれたことがある。絵師もまた危ない刃渡りをしているようなものです。
「君、拙者は君を侮辱するつもりでいうんじゃないよ、他人を侮辱するには自分の現在というものが、ごらんの通りあまりに貧弱だ。ただしかし、世間の賞美する人間の面《つら》という面が、ことごとく押絵細工同様の薄っぺらなものであるところへ、君の面を見て僕は驚歎してしまったのだ。拙者は足利《あしかが》の田山白雲という貧乏絵師だが、今日はこれからなけなしの財嚢《ざいのう》を傾けて、君のためにおごりたいのだ、ぜひつき合ってくれ給え」
足利の絵師田山白雲と、宇治山田の米友とが会話最中、
「人気者が来た!」
たださえ、物見高い浅草の広小路附近に、潮のような群れが溢れ返って、
「人気者が来た!」
口々に喚《わめ》き叫んで、押しつ押されつ非常なる混雑になってしまったから、自然二人の対話も途切れて、その人だかりをながめないわけにはゆきません。
「みい[#「みい」に傍点]ちゃん、人気者が来たから見に行きましょう」
「はあ[#「はあ」に傍点]ちゃん、待って下さいよ」
町並《まちなみ》から走り出でる者。
「御同役、人気者が出て参ったそうでござる、一見致そうではござらぬか」
「いかさま」
通行の者も歩みをとどめてながめる。
「人気者とは何です!」
と中から叫び出でたものがあると、群集は怒りを含んだ声で、
「人気者とは何だと問うのは誰だ、人気者であるが故に人気者である、理由の存するところには人気はない!」
一喝《いっかつ》する者があります。
「違う、実質があって後に、人気はおのずから生ずるのが原則だ、しからざる者は一時の虚勢に過ぎない。当世はまず人気を煽《あお》って、しかして後に事を行わんとするの風がある、これ冠履顛倒《かんりてんとう》で、余弊|済《すく》うべからざるものがある、よろしく人気の根元を問うべし」
と焚きつけるものもあります。
しかしながら、問う者も答える者も、現在やって来る人気者の何者であるかを突留めている者はない。ただ、遠くから人の頭越しに、おびただしい旗と幟《のぼり》の行列がつづくのをながめているだけです。
「多分|尊王攘夷《そんのうじょうい》でしょ
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