、あたりの人が散ってしまったのには気がつきません。ちょっと絵筆をさしおいた絵師が、
「君、絵がわかるかね」
とたずねたときに我にかえって、
「うむ、絵はわからねえけれど、筆つきが面白いなあ」
「そうか、一枚描いて上げようか」
「いらねえ――」
すげもなくいうと、絵師は、
「君は面白そうな男だ。いったい、拙者の絵を見ているのか、筆を見ているのか」
「うむ――」
米友は唸《うな》りました。改ってこう尋ねられてみると、ちょっと返答に困るのです。ナゼならば米友は、そんなに絵が好きではありません。この絵師の描いている画題そのものも、人の足を引留めるほどの奇抜なものでもなんでもないから、絵草紙屋の店頭《みせさき》をも素通りする米友が、ことにこれらの絵に向って、足をとどめねばならぬ必要は更にないはずです。そうかといって筆が好きだというのも、おかしなものですから、ちょっと吃《ども》って、
「筆つきがばかに気に入ったなあ」
「ははあ、では、やっぱりこの筆が気に入ったのだな。絵は要《い》らないが、筆が欲しいというのか。そんならこの筆を上げよう」
といって描きかけた筆を米友の前に提示しました。米友は面喰って、
「俺《おい》らが筆を貰ったって仕方がねえ」
「それじゃ何が欲しいんだ」
絵師は頬かぶりの中から、巨眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、改めて米友の面《かお》を穴のあくほどながめたから、米友が少し癪にさわって、
「いつ、俺《おい》らが欲しいといったい? 俺らは物貰いに来たんじゃねえんだぜ」
こういって軽く地団太《じだんだ》を踏んで見せますと、米友の笠の下から、穴のあくほどながめていた絵師は、何に感心したか、小首を捻《ひね》りながら言葉を重くして、
「君」
「何だい」
「君にちっとばかり頼みたいことがある」
と改まったいいぶりで、なお米友の面を穴のあくほどながめて、
「ぜひお願いだ!」
絵師はむしろ歎願のような声。それを米友は焦《じ》れて、
「なんだってお前、俺《おい》らの面《つら》ばっかりながめてるんだ。第一、人の面を、ちょっとぐらいならいいが、そう長くながめているのは失礼に当るだろう」
絵師はその時、わざわざ頬かむりを取って、
「悪く取ってもらっては困る……拙者は、君の面《かお》に見惚《みと》れて、つい失礼しちまったのだ」
「ナニ?」
「怒っては
前へ
次へ
全169ページ中92ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング