ごく、小刀を前半《まえはん》にし、大刀を後ろの柳の木へ、戸板を結びつけたしきり[#「しきり」に傍点]へ立てかけて置いて、その中へあぐらを組んで、しきりに絵筆を揮《ふる》っているのが、一種異様に見えますから、米友も思わず足を留めてその前に立っていました。
「済みませんが、鍾馗様《しょうきさま》を一つ描いて下さいな」
町家のおかみさんらしいのが頼みに来ると、
「よろしい」
絵師は、さっさと紙を展《の》べて、縦横に筆を走らせ、見るまに悪魔除けの鍾馗様を作り上げてしまうと、おかみさんは喜んでそれを受取り、いくらかの鳥目《ちょうもく》を紙に包んで去りました。
「おじさん、凧《たこ》の絵を描いておくれ」
「よしよし」
ひきつづき、二人の子供のために、絵師は筆を揮って、忽《たちま》ちに雲竜《うんりゅう》と奴《やっこ》とを描き上げた腕前は、素人《しろうと》の米友が見てさえキビキビしたものです。
「こちらへお出しなさい。糸目をつけて上げますから」
絵師が凧の絵を描いてしまうと、その後ろに乳呑児《ちのみご》を抱いて控えていた、この絵師の女房らしいのが直ちにそれを受取って、子供のために糸目をつけてやる。この女房も、身なりこそは粗末だが、人品になかなか侮《あなど》りがたいところがある。
凧《たこ》の絵を描いてもらって、糸目までつけてもらった鼻たらし小僧は、
「おじさん、お銭《あし》をここへ置くよ」
五六文の銭を抛《ほう》り出して行ってしまうと、そのあとは暫くお客が絶えていたが、絵師は、別の紙を取り出して、盛んに筆を揮《ふる》っている。
その逞《たくま》しい筋骨といい、両刀を離さないところといい、その女房の品格のあるところといい、たしかに変った絵師夫婦であるが、さりとは落ちぶれ過ぎたと哀れを催すものもありましたが、米友は、その絵師が描きなぐっている絵筆の勢いが、ばかに気持がいいので、お得意柄、名人の使う槍でも見るような気持で、その筆勢に見惚《みと》れておりました。
感心なことに宇治山田の米友は、何事に限らず、芸の神髄を見ることが好きなのです。生《なま》な奴がキザな真似をすれば、この男は、やにわに立って叩きのめしたくなる病があると共に、事の妙境に触るるを見てとった時には、我を忘れて心酔するの稚気《ちき》があるのです。
そこで、この絵師の書きなぐる筆勢を、心酔的にながめていると
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