、お雪はなんだか鉛のように重いものが、このうららかな天気を圧して、青天白日の間に鬼火が流れるように、ゾクゾクと寒気《さむけ》が立ち、書院の火燈口《かとうぐち》の方を見やると、そこに微かな人の咳《しわぶき》の声がします。
「弁信さん、お前、怖くはないの?」
と言って見た時、平然として坐っていた弁信の面《かお》の色が真蒼《まっさお》でありました。

         二十二

 宇治山田の米友は、道庵先生のために、圧倒的に説き伏せられて、とうとう上方行きの随行を承知することになってしまいました。
 米友にとっては、道庵が命の親であるのみならず、たしかに一箇の苦手《にがて》で、この人に向うと、得意のタンカも切れなくなってしまい、苦々《にがにが》しい思いをしたが、それといって今の身分で、道庵の頼みを拒《こば》むべき理由もなく、かえって無意味に遊んでいるよりは、有益なことには違いないから、ともかくも返答に三日の猶予を置いて、これから小石川へ帰ろうとします。
 気の短い道庵は、お仕着せや、そのほか旅の用意をその場で調《ととの》えて、それを風呂敷に包んで、米友に背負《せお》わせました。そこで米友は、件《くだん》の風呂敷包を首根っ子に結《ゆわ》いつけ、竹笠をかぶって、跛足《びっこ》の足を引き、例の杖槍をついて、道庵の屋敷を立ち出でました。
 ふらふらと浅草広小路へ出て来た米友は、ここだなと思いました。ここで、その昔、梯子乗《はしごの》りの芸当をやって見せて、かなりの人気を博したことがある。その時、ある大名の行列が乱暴をしたから、その先手《さきて》の水瓜頭《すいかあたま》を十ばかり見つくろって殴《なぐ》り、吉原の方へ逃げ込んだことがある。その時の前科はもう気のつくものはあるまいが、それでも米友は多少気が引けて、笠をかたげる気分で通ってみても、露店や見世物の賑やかなところを見ると目うつりがして、やがて以前、自分が梯子乗りをしていたところへ来て見ると、そこに店を張っているものがあります。
 それは一人の絵描《えか》きが露店を張って、通る人の求めに応じて、さまざまの絵を描いているのであります。
 ところが、この絵描きが、風采《ふうさい》からしてすこぶる変っています。六尺豊かの筋骨|逞《たくま》しい鬚男《ひげおとこ》で、髪は結髪《けっぱつ》にした上から、手拭で頬かむりをし、眼先なかなかものす
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