た上ります」
といって、娘は泣きながら、庫裡《くり》の方へ帰ってしまったあとで、竜之助は蒲団《ふとん》の下に敷いて寝ていた白鞘物《しらさやもの》の一刀――殺されたという女が記念《かたみ》にくれた――それを取り出して膝へ引寄せました。引寄せてみたところでどうなるものか、この刀に、その女の魂魄《こんぱく》が残っているわけではあるまいし、といって、見えぬ目の前にいる見えぬ同士の弁信を、どうしようというのでもあるまい。五十丁峠から陣馬へかかるところで、みちに迷うて行きつ戻りつしていた駕籠を、無事にこっちへ引向けて、予定通りこの月見寺へ導いて来たのは、ほかならぬお喋り坊主のおかげではなかったか。
 その弁信法師は、この時分、もう再び琵琶をかなでるの元気はなくなったと見え、そうかといって、それを蔵《しま》おうでもなく、しょんぼりとして縁先に坐ったままです。
 空の月は、青根から大群山《おおむれやま》の上をめぐっている。
「弁信殿」
「はい」
 竜之助の問いに弁信が、例によって神妙な返事をします。
「お前は心あってああいうことを言われるのか、それともその時の出まかせか」
 重ねて竜之助が問うと、弁信は、
「左様でございます」
 同じところを向いたままで、同じようにしょんぼりとしたままで、
「私は口が過ぎていけません。そのことは知らないではありませんから、自分ながら慎《つつし》みをしようかとも思いますけれども、その場合になりますと、そういう感じがフイに湧き起って参りまして、そう言わなければだまっていられないのでございます。言ってしまったあとで、ハッとは思いますけれども、なおよく考えてみますと、自分のいったことが間違っていたとは思われませんので、これはいい過ぎたと後悔を致したことが更にございませんのです。その時はお笑いになった方々まで、あとになりますと、私の申したことにヒタヒタと思い当ることがおありなさると見えて、さのみ私をお咎《とが》めにもなりませんのでございます」
「では、ここにいる拙者が、巣鴨まで人を殺しに行ったのも本当かも知れない」
といって竜之助は、冷たい笑いを例の蒼白い面《おもて》に漂わせましたが、何としたものか、その笑いが急に止むと、その面がみるみる真珠のような白味を帯びて、ひとむらの殺気が濛々《もうもう》として、湧き上って来るようです。
 その時、弁信法師はこれも何と
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