思ったか、ヒラリと縁を飛び下りて、下に揃えてあった草履《ぞうり》を穿《は》き、すたすた[#「すたすた」に傍点]と庭へ下りて行って、庭の一隅《いちぐう》に四寸角、高さ一丈ほどの卒塔婆《そとば》が立って、その下に小石が堆《うずたか》く積んであるところへ来ると、腰を屈《かが》めて合掌し、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と唱えて、その小石を一つずつ取っては移し、取っては移ししていました。その時|褥《しとね》をガバと蹴って跳ね起きた竜之助は、白鞘の刀を抜いて縁先に立ちましたが、その見えない目は、まさしく盲法師の弁信に向っている。
「あ、先生! あなたは私をお斬りになろうというのですか」
目の見えない弁信の振向いた面《おもて》は、やはりピタリと竜之助の面に合っています。
何ともいわない竜之助の白衣の全身から、まさしく殺気が迸《ほとばし》っているのを感得した弁信の恐怖を、誰あって来り救おうとするものもありません。
ヒラリと卒塔婆の蔭に身を移した弁信は、恐怖は感じながらも、叫びを立てて人を呼ぼうでもなく、
「先生、あなたが私を斬ろうとなさるのはいけません、今までにないことでございます、今まで私は、あなたの傍におりましても、更にその殺気というものを受けたことがございませんから、少しも怖れというものが起りませんでしたけれども、今は怖れます、あなたは、たしかに私をもお斬りになろうという覚悟で、それへおいでになりました」
弁信の小楯《こだて》に取った卒塔婆の一面に、この時、真向《まとも》に月がさすと、それに、
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「若残一人、我不成仏」
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の文字がありありと読める。ただ、斬ろうとする人も、斬られようとする人も、共にそれが認められないだけです。
「此寺《ここ》へおいでになってから、これで二度《ふたたび》あなたの身に殺気の起ったことが私の心に響きました。その一度は、先日の夜、あなたは、今のあの娘さん――お雪ちゃんというのを斬ろうとなさいました。その時、私が感づいたものですから、不意に中へ入ってお雪ちゃんを助けてやりました。それともう一つは、たった今、私を斬ろうとなさるその心です。悲しいことではございませんか、まだ、あなたは人を斬らなければならないのでございますか」
といったけれども、何の返答もなく、刀を提げてそろそろと縁を下りて、沓脱《くつ
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