福村は、
「そんなものはいりません、早く飯《まま》が食べたいのです」
「いま、食べさせて上げるから、おとなしくしておいで」
「あい、さむらい[#「さむらい」に傍点]の子というものは、腹が減ってもひもじうない……それよ、今日はまた珍しい人に、二人までぶっつかって来ましたよ」
「珍しい人……誰?」
「一人は両国の女軽業の太夫元のお角さん……」
「いやな奴」
お絹は心からお角を好いていない。お角の方も御同様でしょう。
「そのうち、日光へ参詣を兼ねて、一緒に大中寺《だいちゅうじ》の御大《おんたい》をたずねる約束をして来たから、近いうちここへやって来ると思う、やって来ましたら、どうぞお手柔らかに」
「知らない」
お絹が横を向くと、福村は改めて、
「御機嫌を直して下さい、もう一人は、決してあなたの嫌いな人ではありません、あのあなたの娘分のお松どのに逢って来ましたよ」
「お松に、どこで?」
「通油町の鶴屋で」
「あの子はこっちへ来ていたのか知ら。来ていたんなら、わたしのところへ面《かお》を出しそうなもの。薄情な娘《こ》。何をしていました」
「お屋敷奉公なんだろうが、そのお屋敷というのが……」
そこで福村が邂逅《かいこう》の顛末《てんまつ》と、五七の桐の疑点とを物語ると、聞いていたお絹の面に、安からぬ色が浮びます。
二人がお取膳で御飯を食べてしまってから、福村は、
「御大もこっちへ、出て来たいには来たいだろうがな」
といいますと、お絹が、
「出て来たって仕方がありませんよ」
「かわいそうに、そんな薄情なことを言うもんじゃない、当人は島流し同様な境遇にいるのだから、あの気象ではたまるまい」
「なあーに、向うで、我儘《わがまま》いっぱいにしているでしょう」
「そうはいくまいテ、誰といって親身《しんみ》になって侍《かしず》くものはあるまいし」
「いいえ、旧領地の人たちが、有難がって大騒ぎしているということです」
「だって、旧領地の人じゃあ仕方がない、誰かこっちから行ってやりたい親切な人はないかなあ」
「そりゃあるでしょう」
「あるならば、遠慮なく行っておやりなさい」
「知らない……」
お絹は横を向いて、絵本を取り上げてしまいました。
「怒ったのかね」
福村は御機嫌をとると、お絹はやっぱり横を向いたまま。
「お気にさわったら御免下さいよ」
それでもお絹はつん[#「つん」に傍点
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