みせさき》を去ると、
「毎度、御贔屓《ごひいき》さまに有難う存じまする」
 大切なお得意先と見えて、番頭は特別に丁寧に、この小娘のお使に頭を下げて送ったから、福村がはじめてこの娘を見直すと、
「お松どのではないか」
 娘が振返って見て、
「まあ、福村様」
 二人は鶴屋の店頭《みせさき》で、意外の邂逅《かいこう》に驚いた体《てい》です。
 娘は申すまでもなく、本所の相生町の老女の邸のお松であって、この男を知っているのは、ずっと以前、神尾主膳の伝馬町の屋敷に仕えていた時分のことで、その時分から、この福村は神尾の屋敷へ出入りしていた道楽友達であります。
 あの時分にはなんといっても、神尾は由緒《ゆいしょ》ある旗本の株を失わなかったし、福村も今ほどくずれてはいなかったから、お松は主人筋のお友達に出逢った気持で、福村様といいました。ところが、今では軽業小屋の美人連からでさえも、福兄さんで通っている福村は、お松にかく慇懃《いんぎん》に福村様と呼びかけられて、多少きまりの悪い形です。
「いかさま珍しいことじゃ、いったいお松どの、君は今どこにいるのだね」
「本所の方におります」
「本所――本所はどこだね」
「本所は相生町でございます」
「相生町――」
といって福村は、お松の姿と、抱えている風呂敷包とを、事新しくながめます。お松の姿はお屋敷風で、その胸にかかえているのは、今もたしかに見ておいた通り、五七の桐を白抜きにした紫縮緬の風呂敷であります。そこで、ちょっと福村が、胸の中で、相生町へ当りをつけてみました。相生町辺でしかるべきお屋敷――それも格式の軽くない五七の桐を用いているお屋敷。福村は地廻り同様にしていた土地だから、ちょっと当りをつけようとしてみました。
 エート、相生町の一丁目から五丁目までの間には、しかるべき大名旗本の屋敷はないはずだが、お台所町へ出ると、土屋相模守と本多内蔵助がある。土屋は九曜《くよう》で、本多は丸に立葵《たてあおい》。緑町へ行って藤堂佐渡守の下屋敷、あれは蔦《つた》の葉、津軽越中守は牡丹丸。こう考えてくると、あの辺で五七の桐を用うる屋敷は思い当らないのであります。そこで、
「相生町は、誰のお屋敷?」
とたずねると、お松も、ちょっと返事に困ったらしく、
「御老女様のお屋敷に、お世話になっておりまする」
「御老女様?」
 これも福村には頓《とみ》に合点《がて
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