るのが米友の米友たる所以《ゆえん》で、
「先生、そ、そんなわけで言ったわけじゃねえんだ、近所に藪があるというような、そんなあてっこすり[#「あてっこすり」に傍点]で言ったわけじゃねえんだ、藪なんぞは、目黒でなくったっていくらもあらあな」
「なおいけねえ!」
道庵が両手を差し上げたから、米友のあいた口が塞がりません。
けれども藪争いはそれより以上に根が張らず、道庵はいいかげんにして米友のために、二箇の印籠へ充分に薬を詰めてやりました。そうしていったい、旅へ出かけるというのはどこへ出かけるのだと尋ねると、米友の言うことには、このごろ、下総の国の小金ケ原というところへ山師が出て、目黒の不動様のお札を撒《ま》き散らしたり、荒人神《あらひとがみ》のうつしを持ち出したりするということだから、三仏堂の役僧と、講中の重なるものとが、それを取調べのために小金ケ原へ出張することになり、その帰りには佐倉、成田の方面へ廻るということで、いま目黒の不動様に厄介になっている米友が、その附人《つきびと》の一人に選ばれたという次第です。
それを聞くと道庵が珍重《ちんちょう》がって、ちょうど、その小金ケ原へは自分もひとつ下検分に行ってみたいと思っていたところだから、お前が行くならば一緒に行こうと、乗り気になってしまいました。
そこで米友は薬を貰って、一旦目黒の不動院へ立帰る。発足はその翌日未明ということにきまっていて、道庵の一行は、上野の山下で不動院の一行を待ち合わせ、そこで相共に小金ケ原まで乗込もうということに相談がきまりました。
翌朝、道庵は、いつぞや伊勢参りに連れて行った仙公というのを一人だけ引具《ひきぐ》して、山下に待ち合わせていますと、まもなく不動院の一行がやって来ました。
この一行が千住の小塚原《こづかっぱら》に着いた時分も、朝未明《あさまだき》でありました。
なにげなく来て見ると、千住大橋あたりからお仕置場あたりまで、押し返されないほどの人出です。
「えいじゃないか」の踊りがある。木遣《きやり》くずしのような音頭がある。一天四海の太鼓の音らしいのも聞える。思うにこの夥《おびただ》しい人数は昨夜一晩、踊って踊り抜いてまだ足りないで、ここまで練って来たものらしい。出かけた先は、やはり下総の小金ケ原でしょう。小金ケ原から踊り出して、小塚原へ来るまでに夜が明けてしまったと見える。夜が明けても彼等の踊り狂う熱は醒《さ》めない。この分では、江戸の町中を踊り抜いて、また日が暮れて夜が明けるまで、踊り抜くのかも知れません。
不動堂の一行も、道庵先生の一行も、この人数をどうすることもできません。とても正面から行っては、この人数を押し破って通るというわけにはゆきません。さりとて、行手は千住の大橋で、川を徒渡《かちわた》りでもしない限り、裏道を通り抜けるというわけにもゆきません。やむことを得ずしてお仕置場の中へ避けて、この人数をやり過ごそうとしました。踊り狂って行く連中のほかに、この時分になると夥しい見物人です。
あとからあとからと続く人数の真中に、馬にのせられた偶像がたった一つある。
それは偶像ではない、たった一人の小坊主が、この人数にもあまり驚かない温良な黒馬に乗っかって、悲しそうな面《かお》をして、人波に捲かれていることです。
その小坊主は、誰が見ても盲目《めくら》で、おまけに身体《からだ》よりも大きな笈《おい》を背負っていることがどうにも不釣合いです。この小坊主だけが、どうして馬に乗っているのだろう。馬に乗っているというよりは、見たところ、むりやりに馬へ掻《か》きのせられて、それを取捲く群集が、山車《だし》の人形のように守り立てて、山の上まで持って行こうという勢いですから、小坊主は騎虎の勢いで下りるにも下りられず、言いわけをしても、この騒ぎで聞き入れられず、ぜひなく多数に擁《よう》せられて、行くところまで行こうという気になっているもののようです。
周囲の人々が熱しきって、気狂《きちが》いじみているにかかわらず、この小坊主だけが、泣くにも泣かれない面色《かおいろ》を遠くから見ると、ちょうど、ところが千住の小塚原であるだけに、さながら屠所《としょ》の歩みのような小坊主の気色《けしき》を見ると、いかにも物哀れで、群集の熱狂がこれから何をやり出すのだか、心配に堪えられないことどもです。
「皆さん、ここはどこでございます、もうこの辺でおろして下さいまし」
馬上の小坊主は、泣くが如く、訴うるが如く、こう言いますと、
「ここは、まだ江戸のとっつき、千住の小塚原だよ」
と馬側《うまわき》から答える者がありました。
「ええ、小塚原ですって? あ、そんなら皆さん、ここでおろして下さいまし」
馬上の小坊主は声を振絞《ふりしぼ》りました。
「まだまだ小石川の伝通院までは、なかなかの道のりだ、もう少し乗っておいでなさい、伝通院の御門前までは、ぜひぜひ送って上げますからね」
馬側から、またこう言って叫ぶ者がありました。
「いいえ、もうここでよろしいのです、ここが小塚原とお聞き申してみますと、わたくしはここを乗打ちができないわけがあるんでございます。もし、もうこの辺がお仕置場でございましょう、わたくしはここで、お地蔵様へお礼をして通らなければならないわけがあるんでございます」
小坊主は、誰がなんと言っても、ここで下りようとしました。
やがて、その大きな笈《おい》を背負った小坊主が、馬の背から下りて、小塚原のお仕置場の高さ八尺の石の地蔵尊の前へ、ようよう這《は》いついた時に、それを見た宇治山田の米友が、
「ありゃあ、清澄から来た弁信だ」
疲れきっているくせに重たそうな笈を背負った弁信は、ようように地蔵尊の前へのたりつくと、そのところへ平伏してしまいました。むしろ、その重い笈のために、つぶされてしまったようです。
それを見た群集は、あわてて弁信を引起して、またも馬上へ運ぼうとしますと、弁信は力なき声をふり上げて、
「どうぞ、もうお赦《ゆる》し下さいまし、わたくしは疲れきってしまったから、もう馬に乗るのはいやでございます、どこぞへ暫く休ませて下さいまし」
弁信は、再び馬に乗せられるのを頻《しき》りにいやがるのに、多数の者は、
「もう少しだから、辛抱なさい、お前さんが御本尊だ、御本尊が馬の上にござらないと、踊る人が張合いがない、伝通院まで送って上げるから、ぜひとも辛抱なさい」
弁信をむりやりに馬の背へ掻き乗せようとする。それを弁信はしきりにいやがっているのです。あれほど疲れてもいるし、いやがりもするのを、なんだって多数《おおぜい》して担ぎ上げようとするのだか、それがいよいよわからないから、米友は人を掻きわけて、ずっと傍へ寄りました。米友が人を掻きわけて行くと、その傍にいた道庵も、こいつはまた変ってると思って、抜からぬ面《かお》をして米友にくっついて行きました。
「おいおい、お前は弁信さんじゃねえか」
こう言って米友が言葉をかけると、弁信が、
「はいはい、あなたはどなたでございましたか知ら」
「俺《おい》らは米友だよ、友造だよ」
「ああ、友さんでございましたか、その後は御無沙汰を致してしまいました、お前さんもお壮健《たっしゃ》で結構でございます、わたくしもまた、あれから、お前さんと別れましてからは、下総国小金ケ原の一月寺というのへ行っておりましたが、一月寺におりますうちに、わたくしは清澄の茂太郎と一緒になりました、あなたにも一度お消息《たより》をしようと思っているうちに、つい御無沙汰になってしまいました……」
この場合においても、お喋り坊主の弁信は、一別来の一伍一什《いちぶしじゅう》を喋り出そうとするから、米友も堪り兼ねて、
「弁信さん、御無沙汰どころじゃなかろうぜ、お前は今、弱りきって死にかけてるじゃねえか、いったい、そりゃどうしたんだい、大きなものを背負《しょ》い込んで、死にかけていながら、御無沙汰でもなかろうじゃねえか」
「ええ、その通りでございます、友造さん、わたくしはごらんの通りに弱りきっております、死にかけているんでございます、どうか助けておくんなさいまし」
「どうしたんだ、いったい、わけがわからねえや、どうして助けりゃいいんだ」
「友造さん、わたしはもう、馬に乗りたくないのでございます、わたしを助けて下さろうと思ったら、わたしを馬に乗せないようにしていただきたいのでございます、馬に乗せないで、この笈物《おいぶつ》のお守《もり》をしながら、どこかそこらで、ゆっくり休ませていただきたいんでございます、皆さんがむりやりに、わたしを馬に乗せて、踊っておいでなさろうとするが、私はもういやでございます、このうえ馬に乗せられると、私も死んでしまいます、背中の笈物も死んでしまいます、どうか、お助けなすって、私をこのうえ、馬に乗せないようにして下さいまし、お願いでございます」
そこで米友が、いよいよわからなくなってしまいました。わからないけれど、さしあたっての急務は、この小坊主を馬に乗せないで、どこかへ静かに休息させてやればよいのだと思いました。
そこで米友が、大勢を相手にその掛合いをしようという気になっていると、
「なるほど……」
米友の背後《うしろ》から図抜けて大きな声を出して「なるほど!」と言って、人を驚かしたものがありました。一同がその声に吃驚《びっくり》して見ると、それは別人ならぬ道庵先生です。
「こりゃいけねえ、お前たちは、この盲目《めくら》の坊さんを人身御供《ひとみごくう》として、むりやりに馬に乗せて引張って来たんだろうが、見た通り弱りきって、疲れ果てているのを、この上馬に乗せようとするのは惨酷じゃねえか。昔、神田の祭礼の時に馬鹿な奴があって、素裸《すっぱだか》へ漆《うるし》を塗って、生きた人形になって山車《だし》へ乗っかって、曳かれる者も得意、曳く者も得意でいたところが、いいかげん引っぱってから卸して見ると、その人形が死んでいたという話があらあ。この坊さんだって、もう二三丁も馬に乗せて行こうものなら往生しちまわあ。幸い道庵が通りかかった以上は、商売の手前、見殺しにはできねえ、この小坊主は暫く道庵が預かって、療治を加えてやった上、改めてお前たちに引渡すから、お前たち、暫くの間、ここで踊って待っていろ、この小塚原の亡者《もうじゃ》どもが浮び出すほど、踊って待っていろ……ところでいったい、お前たちは無暗に踊ったり跳ねたりしているようだが、踊りのこつ[#「こつ」に傍点]というものを知っているのか、それとも知らずに踊っているのか、おそらく知っちゃあいめえな。自分からこういうと口幅《くちはば》ったいようだが、日本広しといえども馬鹿囃子にかけちゃあ、当時下谷の長者町の道庵の右に出でる者があったらお目にかかる、この道庵の眼から見れば、お前たちの踊りなんぞは甘《あめ》えもので、からっきし、物になっちゃあいねえ」
石の地蔵尊の台座の上に突立って、いつぞやの貧窮組の先達気取りで演説をはじめた道庵が、飛んでもないところへ脱線してしまいました。
実際、馬鹿面踊《ばかめんおど》りの極意《ごくい》に達している道庵の眼から見れば、小金ケ原の場末から起り出した不統一な、雑駁《ざっぱく》な、でたらめな、この輩《やから》の連中の踊りっぷりなんぞは、見ていられないのかも知れません。そうだとすれば、道庵が思わず義憤を発して、この衆愚を啓発してやろうという気になったのも、無理のないところがあります。
「そもそも馬鹿囃子のはじまりは、伊奈半左衛門が、政略のためにやったということになっているが、道庵に言わせるとそうでねえ。ちうこう[#「ちうこう」に傍点]になって雲州松江の松平出羽守、常陸《ひたち》の土浦の土屋相模守、美作《みまさか》勝山の三浦志摩守といったような馬鹿殿様が力を入れて、松江流、土屋流、三浦流という三つの流儀をこしらえたが、馬鹿囃子の本音は、トテモ殿様のお道楽では出て来ねえ。つづいて旗本の次男三男のやくざ[#「やくざ」に傍点]者が、深川囃子というのを
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