うこの地方の民謡だけではありません。相馬流山《そうまながれやま》の節を持ち込むものもあります。潮来出島《いたこでじま》を改作する者もあります。ついに「えいじゃないか」を歌い出すものがあって、その踊りぶりも得手勝手の千差万別なものとなりました。
 その翌日は、お札の降ったところの原の真中に、白木造りの仮宮《かりみや》が出来ました。その晩には仮宮の前へ、誰がするともなく、おびただしい鏡餅の供え物です。紙に包んだ金何疋のお初穂《はつほ》が山のように積まれました。
 多分、江戸から来た物好きがしたことでしょう。白の襦袢《じゅばん》に白の鉢巻の揃いで繰り込んで来た一隊が、鐘や太鼓で盛んに「えいじゃないか」を踊ります。
「一杯飲んでも、えいじゃないか、えいじゃないか」
 神前のお神酒《みき》をかかえ出して、自らも飲み、人にもすすめながら踊りました。
 小金ケ原の真中へ町が立ちます。物を売る店が軒を並べました。
 毎夜、一旦、ここへ集まって踊りの音頭を揃えた連中が、散々《さんざん》に踊り抜いて、おのおのその土地土地へ踊りながら帰る。水戸様街道を東へ踊り行くもの、松戸から千住をかけて江戸方面へ流れ込むもの、北は筑波根へ向って急ぐ者、南は千葉佐倉をめざして崩れて行くもの、それに沿道に残されたものが参加して踊って行くから、大河の流れのように末へ行くほど流れが太くなるのはあたりまえです。
 その中心地、小金ケ原へ一夜のうちに出来た仮宮の宮柱も、みるみる太くなりました。いつ任命されたものか、もうそこに一癖ありげな神主が、烏帽子直垂《えぼしひたたれ》で納まっております。
 なるほど、この神主は一癖も二癖もありげで、ただ宮居の中に納まっているのみでなく、笏《しゃく》を振って手下の者を差図し、奉納の鏡餅は鏡餅、お賽銭はお賽銭で恭《うやうや》しげに処分をさせる。お供え餅は俵へ詰め、お賽銭は叺《かます》へ入れてどこかへ送らせてしまう。
 それからまたこの神主は、清澄の茂太郎と、盲法師の弁信の御機嫌を取ることが気味の悪いほどであります。仮宮は何の神様であるか知らないが、その御本体を大切にするよりは、茂太郎と弁信の御機嫌を取ることが大事であるらしい。
 憐れむべき二人の少年は、今はこの神主が怖ろしいものになりました。
 茂太郎と弁信は、このところを逃げ出そうとします。逃げ出さなければ、もう命が堪らないと思いました。
 けれども、こうなってみると彼等二人は、盲目な群集を利用せんとする連中のためになくてならぬ偶像です。逃げようとしても逃がすまい。強《し》いて出ようとすれば、ここに留まっているよりも危ない。額を突き合せて二人が相談をしたけれども、何を言うにも弁信は盲目であり、茂太郎は子供である。
「では、与次郎に相談してみましょうか」
「ああ、与次郎に相談してみましょうよ」
 二人は与次郎に向ってその苦しい立場を説明して、よい知恵を借りたいということを哀願すると、暫く眼をつぶって思案していた与次郎が……待って下さい、この与次郎というのは、一月寺《いちげつじ》の食堂に留守番をしている七十を越えた老爺《おやじ》のことであります。一月寺の貫主《かんす》は年のうち大抵、江戸の出張所に住んでいる。院代《いんだい》がいるにはいるが、これはほとんど寺のことには無頓着で、短笛《たんてき》を弄《ろう》して遊んでいる。与次郎が寺のことはいちばんよく知っていて、いちばんよく働くから、貫主も一目も二目も置くことがあります。与次郎老人が一月寺の実際上の執事《しつじ》でありました。その与次郎が、弁信と茂太郎に相談をかけられて、暫く眼をつぶって首を捻《ひね》っていたが、やがて、ずかずかと立って戸棚の中から引出して来たのが、竹の網代《あじろ》の笈《おい》であります。
「我、汝が為めに箇《こ》の直綴《じきとつ》を做得了《つくりおわ》れり」
 与次郎老人が味《あじ》なことを言い出しました。弁信はその声を聞いたけれども、その物を見ることができません。茂太郎はその物を見ているけれども、その言葉を悟ることができません。そこで老人は破顔一笑して、諄々《くどくど》と直綴の説明をはじめたようです。
 どんなことに納得《なっとく》させたものか、その日の夕方には、例によって馬に跨《またが》った弁信が、一月寺の門前に現われました。現われたには現われたが、今日はその現われ方がいつものとは違います。いつも前に立って馬を引張って口笛を吹くべきはずの茂太郎が見えないで、その代りでもあるまいが、馬上の弁信法師は、身なりに応じない大きな笈《おい》を背負って、自ら手綱を取っています。それに今までは裸馬であったが、今日は質素ながらも鞍《くら》を置いて手綱をかませています。ただ、弁信の背中に背負っている笈が、いかにも大きいのに、弁信そのものが小兵《こひょう》の法師ですから、弁信が笈を負うのではなく、笈が弁信を背負って馬に乗っているように見えます。
 それと見て集まった人々は、今日の馬上の有様の変ったのに驚き、また前にいるべきはずの茂太郎のいないことを怪しみもしました。それにも拘らず、盲法師の弁信は自ら手綱をかいくって、徐々《しずしず》と馬を進めながら、今日は馬上で得意のお喋りをはじめます。
「皆さん、老少不定《ろうしょうふじょう》と申して、悲しいことでございます、長らく皆様の御贔屓《ごひいき》になっておりました茂太郎が死にました……お驚きなさるのも御尤《ごもっと》もでございます、皆様がお驚きなさるより先に、私が驚きました、無常の風は朝《あした》にも吹き夕《ゆうべ》にも吹くとは申しながら、なんとこれはあんまり情けないことではござりませぬか、昨日までは皆様と一緒に、ああして歌をうたい、踊りを見ておりました茂太郎が、僅か一日病んで、眠るが如くこの世の息を引取りましたと申しますのは、ほんとに私ながら夢のようでございます、これと申しても、みな前世の因縁ずくでございますから、誰を怨《うら》み、何を悲しもうようもございませぬ、それで、私は友達の誼《よし》みに、せめてあの子の後生追善《ごしょうついぜん》を営みたいと思いまして、今夕《こんせき》こうやって出て参りました、私の背中をごらん下さいまし、この大きな笈の中に、この世の息を引取った清澄の茂太郎が、眠るが如くに往生を致しておりますのでございます、私は、これを持って江戸の菩提寺《ぼだいじ》へ安らかに葬ってやりたいと思いまして、そうしてこうやって出かけたのでございます」

         五

 小金ケ原の珍《ちん》な現象が、江戸の市中までも評判になると、そこに謡言《ようげん》がある。曰《いわ》く、近いうちに江戸の町という町が火になる、その時は江戸の町民は悉《ことごと》く住むところを失うて、一時、小金ケ原へ仮りの都を作らねばならぬ。その時に最も幸福に救われたいものは、今のうち小金ケ原の新しい神様を信心しておくがよろしいと、それはずいぶんばかばかしい謡言であります。多少、心ある者は、一笑に附して顧みざるべきほどの無稽《むけい》の言葉であるにかかわらず、それを信ずるものが少なくなかったということは、今も昔も変ることがありません。踊りに行くものよりは信心に行く者が多くなって、相当の身分あり財産ある者が、続々として詰めかけるようになった時分のことであります。
 例の道庵先生が、このことを洩れ聞くと、小膝を丁と打ちました。
「さあ、また乃公《おれ》の出る幕になった」
 そこで近辺に住む子分たちに触れを廻し、馬鹿囃子《ばかばやし》の一隊を狩集め、なお有志の大連を差加えて小金ケ原へ乗込み、都鄙《とひ》の道俗をアッと言わせようとして、明日あたりはその下検分に、小金ケ原まで出張してみようか知らんと思っていたところへ、宇治山田の米友が訪ねて来ました。
「先生」
「やあ、珍物入来《ちんぶつにゅうらい》」
 さすがの道庵先生が舌を巻いて、額を逆さに撫で上げました。
「どうも暫く御無沙汰をしました」
「いやはや」
 道庵は額を逆さに撫でて米友の面《かお》を見ながら、いやはやと言ったのは、どういう意味だかよくわかりません。
「このごろは先生、おいらは目黒の方に行っていますよ」
「なるほど、お前さん、このごろは目黒の方においでなさるのかね」
「目黒の不動様のお寺に御厄介になってるんだが、先生、近いうち旅立ちをするんで、旅の用意の薬をちっとばかり貰いに来た」
「そうですか、よくおいでなさいましたね」
 道庵は忌《いや》に御丁寧な挨拶をして、米友をながめています。
「この中へひとつ詰めておもらい申したいんだ。なあに、近所に医者もあるにはありますがね、素姓《すじょう》の知れた医者の方が安心だから、それで吉坊主《きちぼうず》にことわって、わざわざ先生のところまで貰いに来ました」
と言いながら米友は、懐ろから黒塗りの四重印籠を二組取り出して、道庵の前へ並べました。
「なるほど、近所に医者もあるにはあるが、素姓の知れた医者の方が安心だから、それで吉坊主にことわって、わざわざこの長者町の道庵先生までお運び下し置かれたというわけだね。それはそれは痛み入ったことだ、有難くお請《う》けをして、早速、薬は調えて上げるが、米友、もう少し前へおいで」
 今日の道庵の猫撫声《ねこなでごえ》が大へんに気味が悪いのです。米友にとっては、女軽業《おんなかるわざ》のお角というものが苦手であるとは違った呼吸で、この道庵もまた苦手であります。道庵に頭からケシ飛ばされる時も、米友は面食《めんくら》ってしまうが、こうして猫撫声で出られる時も、気味が悪くてたまらない。もう少し前へおいでと言われて、米友が妙にハニカンでいると道庵は、
「薬のことは薬で、たしかに承知致したが、お前に少々物の言い方を教えてやるから、もう少し前へ出ておいで」
 なんでもないことですけれども、そういうことが気味が悪いから米友は、あまり道庵の家へ寄りつきません。道庵を恩人だとも思い、医術にかけてはエライところのある先生だと信じてはいながらも、米友が道庵に懐《なつ》かないのは、いつもこうして米友を苦しがらせては喜ぶといったような、人の悪いところがあるからです。
「お前、今、なんと言った、目黒から出て来たが、近所に医者もないではないが、素姓の知れたのがいいから、それでこの道庵まで尋ねて来たと、こう言ったね、お前とおれの仲だからそれでもいいけれども、ほかのお医者様の前へ行って、そんなことを言おうものなら、ハリ倒されるよ」
「そりゃどういうわけだろう」
 米友自身では、誰に向ってもハリ倒されるようなことを言った覚えはないのです。ここの先生に向って言い得べきことは、よその先生に向っても言い得ないはずはないと思いました。また、人によって言を二三にするような米友じゃあねえ、と腹の中は不平でしたが、道庵に向っては、口に出して啖呵《たんか》を切るわけにはゆきません。
「どういうわけということはなかろうじゃねえか、よく考えてみな、お前は目黒から来たと言ったろう、目黒はそれ、筍《たけのこ》の名所だろう、筍はお前、どこへ生えると思う」
「そりゃ先生、筍は竹藪《たけやぶ》の中へ生えるにきまってらあな」
「それ見ろ、つまり目黒は藪の名所だろう、その藪の中から出て来たくせに、近所に医者もあるにはあるがとは、道庵に対して随分失礼な言い分じゃねえか、いやにあてっこする[#「あてっこする」に傍点]じゃねえか、その位なら何も最初から、先生、わたしもこのごろ目黒におりまして、近所に藪もあるにはありますが、同じ藪でも長者町の藪の方が気心が知れて安心だから、それで、わざわざやって参りましたと、ナゼ素直に言わねえのだ、それをいやに、遠廻しに、近所に医者もあるにはあるが、わざわざ来てやったと恩に着せるように言われるのが癪だあな、おたがいにこう言った気性だから、物を言うにも歯に衣《きぬ》を着せねえようにして交際《つきあ》おうじゃねえか」
 実にくだらないこじつけ[#「こじつけ」に傍点]です。あんまりな言いがかりです。それを真面《まとも》に受け
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