こしらえると、本所に住んでいたのらくら[#「のらくら」に傍点]者の御家人が負けない気になって、本所囃子というのをこしらえやがったが、やっぱり馬鹿囃子の本音は、生白《なまじろ》い旗本や御家人の腕では叩き出せねえから、まもなく元へ返ってしまった。ところで、その元というのが、旧来の鍔江流《つばえりゅう》の五囃子だが、道庵に言わせると、こいつもまだ不足がある。ところで……」
 道庵は得意になって、馬鹿囃子の気焔をあげはじめました。この場合においてお喋り坊主以上のお喋りが始まりそうだから、気の短い米友がじっとしてはおられません。
「先生、いい加減にしねえと、この坊さんが死んじまうぜ」
「あ、そうだそうだ、馬鹿囃子より人の命が大事だ、大事だ」
 道庵は、あわてて地蔵の台座の上から飛び下りて、米友と力を合わせて弁信を笈ぐるみ荷《にな》って、近いところの休み茶屋に担ぎ込みました。
 道庵が、お喋り坊主を休み茶屋の中へ連れ込んで療治を加えている間、外に立っている群集は、相変らず踊り狂っていたが、暫くして頻りに、その偶像を返されんことを要求します。
「坊さんかえしてもえいじゃないか、えいじゃないか」
 休み茶屋の周囲を取巻く事の体《てい》が、最初から穏かではありません。ところで、跳《おど》り出した道庵が、公衆の眼の前へ現われて、
「さあ、お前たち、あの小坊主にいろいろと療治を加えてみたが、少なくともなお三日間は安静におらしむべき容態である、いま動かしては命があぶない。といってお前たちも、折角ここまで引出した人形なしにはうまく踊れまい。そこは乃公《おれ》も察しているから相談ずくで、新しい人形を一つお前たちに貸してやる、これは鎌倉の右大将米友公という人形で、形は小さいが出来は丈夫に出来ている、ただいまのお喋り坊主と違って、ちっとやそっといじ[#「いじ」に傍点]くったところで破損をする代物《しろもの》ではない、その代りいじ[#「いじ」に傍点]くり方が悪いとムクれ出す、ムクれ出した日には、ちょっと手がつけられない、そのつもりでこの人形を伝通院まで貸してやるから、これを小坊主の代りに馬の上へ乗っけて踊れ、踊れ」
 お喋り坊主の代りに道庵が提供したのは、鎌倉の右大将米友公と言ったけれども、実は宇治山田の米友のことであります。いつのまにか道庵が米友に因果をふくめて、盲法師の身代りとなるべく納得《なっとく》せしめたと見えて、米友は甘んじて、彼等の偶像となろうとするものらしい。しかし、米友は正《しょう》のままではそこへ現われて来ませんでした。どこにあったか天狗の面をかぶって、頭へは急ごしらえの紙製の兜巾《ときん》を置き、その背中には、前に弁信が背負っていた笈を、やはり頭高《かしらだか》に背負いなして、手には短い丸い杖を持って現われたから、それを金剛杖だと思いました。そうして誰ひとり、米友だと気のつく者はありません。
「大山大聖不動明王《おおやまだいしょうふどうみょうおう》!」
 群集の中から喚《わっ》と鬨《とき》の声を揚げるものがありました。
「南無三十六童子、いけいら童子、うばきや童子、はらはら童子、らだら童子」
と相和《あいわ》するものもありました。
 要するにこの場は、変ったものでありさえすればよいのです。なんとか納まりそうな人形を提供して、馬に乗せさえすればよかったから、天狗の面が図に当りました。
「大山|阿夫利山《あふりさん》大権現、大天狗小天狗、町内の若い者」
 そこで米友が馬に乗ると、彼等は以前に、しおれきった小坊主をむりやりに人形に奉って来た時よりは、一層の人気を加えて、再び踊り熱が火の手を加えて、
「大山大聖不動明王、さんげさんげ六根清浄《ろっこんしょうじょう》、さんげさんげ六根清浄」
 こうして新手《あらて》を加えた踊りの一隊は、小塚原を勢いよく繰出しました。
「鎌倉の右大将米友公の御入《おんい》り」
 声高らかに呼ぶ者があると、
「頼朝公の御入り」
とわけわからずに同ずるものもありました。これが小塚原を繰出すと、ゆくゆく箕輪《みのわ》、山谷《さんや》、金杉《かなすぎ》あたりから聞き伝えた物好き連が、面白半分に潮《うしお》の如く集まって来て踊りました。その唄と踊りの千差万別なることは名状すべくもありません。大山大聖とあがめまつるものもあれば、鎌倉の右大将だというところから鎌倉ぶしを謡うものもある、木遣《きやり》を自慢にうなるものもある、一貫三百を叩き出すものもあろうという景気は、到底人間業とは見えませんでした。
 この噂《うわさ》が程遠からぬ吉原の廓《さと》へ響くと、吉原の有志は、どう考えたものか、ぜひ道を枉《ま》げて、その一隊に吉原へ繰込んでいただきたいという交渉であります。
 ずっと伝通院まで乗込むはずであったのを、吉原遊廓の懇望《こんもう》もだし難く、大山大聖が、しばらくそこへ駕《が》を枉《ま》げることになりました。吉原では、大樽の鏡を抜いてこの一行をもてなします。お賽銭が雨の降るようです。
 ここで暫く休んで、いざ出立という時に、米友の馬側《うまわき》に二人の童子が立ちました。その一人は金伽羅童子《こんがらどうじ》、一人は制陀伽童子《せいたかどうじ》、二人ともに絵に見る通りの仮装をして、これから大聖不動の馬側に添うて、どこまでもおともを仕《つかまつ》ろうという気色です。
 宇治山田の米友が心中の大迷惑は察するに余りあることで、米友としては面白くもなんでもなく、弁信の身代りのために、しばらく犠牲となって馬上に忍び、小石川の伝通院とやらへ、ひとまず送り込まれてしまえば、それで一通りの義務は済むものと思っていたのだから、道草を食わずに早く伝通院へたどりついて、仮面《めん》を取ってしまいたいのだが、まずもって吉原の信心家へ招かれて、退引《のっぴき》のならなくなったのが小面倒の起りです。
 彼等はこの踊りの一行が、世直しの大明神の出現だとでも信じているらしい。ことに一行の本尊様に祭り上げられている馬上の偶像に向っては、正真《しょうしん》の大天狗が天降《あまくだ》ったものとでも思っているのか知らん。そのもてなし方は有難いのが半分、面白がりが半分で、やたらに崇《あが》め奉って、これから到るところ、そのお立寄りを願うことになりそうです。お立寄りを請《こ》われるたびに踊り子の連中には、相当の振舞があるにはあるが、いよいよ大迷惑なのは米友です。
 両側の家から、紙に捻《ひね》ったお賽銭を投げるのが、誰を目的《めあて》であろうはずはない、みんな米友の身体をめがけて投げられるのだから、
「痛エやい」
 米友はムキになって痛がっているところへ、馬の側に立った二人の童子は、ヒューヒューヒャラヒャラと節面白く横笛を吹きはじめました。その笛の調べが実にうまい。踊りの連中は、その笛の音でまたいい心持に踊り出しました。
 その時、一方、吉原の廓内では、思いもかけぬ天上から、ひらひらと落花の舞うが如く、幾多の紙片が落ちて来るから、或る者は欄干《てすり》から手を伸ばし、或る者は屋根へ上り、或る者はまた物干へ駆け上って、その紙片を手に取って見ると、それはいずれも、あらたかな神仏のお札であります。にわかにおしいただいて神棚へ上げるやら、お神酒《みき》を供えるやらの騒ぎとなりました。
 どうしてもこれには、何か黒幕がなければならないことです。
 それから後、かつて貧窮組が起った時と同じ伝染作用が、江戸の市中に起りました。前の時は不得要領な貧民どもが寄り集まって、お粥《かゆ》を食って食い歩いたのだが、今度は無暗に踊って踊り歩くのです。甲の町内で阿夫利山の木太刀を担ぎ出すと、乙の町内では鎮守の獅子頭を振り立てるものがあります。山伏|体《てい》の男を馬に乗せて、法螺《ほら》を吹かせて押出すのもあります。貧窮組が不得要領であった如くに、この踊りの流行も不得要領です。ひとり馬に乗せられた天狗の面は、必ずしも最初の目的通り、伝通院へ送り込まれるものとは限りません。調子に乗ってここを振出しに、江戸八百八街を引き廻されることになるかも知れません。
 金伽羅童子《こんがらどうじ》、制陀伽童子《せいたかどうじ》が笛を吹いて行くと、揃いの単衣《ひとえ》を着た二十余名の若い者が、団扇《うちわ》を以て、馬上の天狗もろともに前後左右から煽《あお》ぎ立てました。
 その煽ぎ立てている揃いの若い者の中を米友が見下ろすと、あっと意外に驚く人物が交っていたから、米友はかぶった天狗の面の中から、その男を見つめました。
 米友が驚いたその揃いの若者の中の男というのは、いつぞや本所の相生町の家で、米友の槍先にかけて、追払った浪人のなかの一人です。

         六

 それとは別に、小塚原のお仕置場の前の休み茶屋に収容されたお喋《しゃべ》り坊主の弁信の枕許《まくらもと》には、道庵もいれば、清澄の茂太郎もいます。道庵のいることは不思議ではないが、茂太郎は、弁信が背負って来た笈《おい》の中から出たものです。
 疲労しきった弁信は、そこで前後も知らぬ熟睡に耽《ふけ》っているが、さて道庵の身になってみると、小金ケ原の踊りは、今やああして江戸の市中へ移って来てみると、これから小金ケ原まで視察に行くほどの必要もなく、またかえってこの江戸の市中のこれからの騒ぎを見のがすわけにゆかないから、そこで弁信、茂太郎の徒をつれて引返すことにきめました。不動院の一行は、ともかく米友は道庵に托しておいて、小金ケ原へ出かけて一応の視察を試むることになりました。
 弁信と茂太郎とを駕籠《かご》に乗せて、長者町の屋敷へ帰って来た道庵、外《はず》しておいた門札をかけ返すと間もなく、病家の迎えを受けたから早速でかけます。
 弁信は一間のうちに死んだもののようになって眠っている。茂太郎はその枕許についていながら、退屈まぎれに庭を見ると、一叢《ひとむら》の竹が密生していました。その竹を見ると茂太郎は、笛が作ってみたくて作ってみたくて堪らなくなりました。笛を作るには作りごろの竹であると思いました。
 欲しくなるとじっとしてはおられないのがこの少年の癖で、とうとう庭へ下りて、丁々《ちょうちょう》とその一本の竹を切って取り、手際よくこしらえ上げたのが一管の、一節切《ひとよぎり》に似たものです。
 それを唇に当てて、ひとり微笑《ほほえ》んで、思うままにそれを吹き鳴らして楽しもうとしたが、それではせっかく寝ている弁信を驚かすことを怖るるもののように、弁信の寝顔をながめました。
 実際よく寝ることであると思わないわけにはゆきません。自分は、あの狭い笈の中へ押込められて、馬の背に揺られ通して来たけれど、さして眠いとも思わず、またさして疲労も感じないのに、弁信さんの眠たいことと、疲れっぷりは随分ひどいと、今更のようにながめました。しかし、自分は、海へもぐっても覚えのあることで人並よりはズンと息が長いのだし、一晩二晩寝なかったところが何ともないように生れているが、世間の人がみんなそうではない。そこで、いささかでも弁信の安眠を妨げないように、自分も心置きなく、暫くでもこの笛を吹き試みて遊びたいという心から、また廊下へ出てみました。廊下へ出てみたところで、やっぱりその響きが、弁信を驚かそうという心配は同じことです。
 笛を携えて庭へ下りて、軒に立てかけた梯子《はしご》を見上げると、屋根の上高く櫓《やぐら》が組んであるのを認めました。
 物干にしては高過ぎる、と思いながら、あそこなら誰憚らず笛を吹いてみるに恰好《かっこう》だと思いました。
 この櫓というのは、道庵先生が鰡八大尽《ぼらはちだいじん》に対抗して、馬鹿囃子《ばかばやし》を興行するために特に組み上げた櫓の名残りであります。
 茂太郎が屋根の上の櫓で、誰憚らず笛を吹こうと上ってみたところが、大尽の御殿の広間に多数の人が集まっているのが、そこから手に取るように見下ろすことができます。
 見れば、それは、やはり踊っているのであります。しかも踊っているのは、いずれも綺羅《きら》びやかな人ばかりであります。
 さて
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