あり、平野があり、河川が流れ、海島が漂い、人跡の到らざるところと、人間の最も多く住むところとを、すべてこの高尾の大見晴らしの一眸《いちぼう》のうちに包むことができる。大見晴らしの大きさは、その接触点に立つの大きさであります。
それはさておいて、今、月明を仰いでこの高原の薄原《すすきばら》の中に、ひとり立つ机竜之助はこの時、もう眼があいていました。いな、少なくとも月の微光をながめ得るほどには、眼が開いていなければならないはずです。
すすき尾花の中に西を向いている、たったひとりの人影に、ちょうど、天心に到る十六日の月が隈《くま》なく照しています。
もし、煙霧がなければ白根山の峰つづきが見ゆるあたりに、竜之助はいつまでか立ち尽しているが、風はそよとも吹かず、ただ高原の夜気が水のように流れているだけです。
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鳥も通わぬ白根の山に
月の光りがさすわいな
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多分、その白根の山ふところに心残りがあるのでしょう。
白根の山ふところの奈良田の温泉で、似而非《にせ》の役人を一槍の下に縫いつけたのは、さのみ恨みの残るべきことではありません。
徳間峠で倒れた時に介抱を受けた山の娘の頭《かしら》のお徳のことが、思い出になるとすれば、思い出にはなります。
お徳は親切な女でした。温和なうちに、かいがいしいところがあって、世話女房としての無類の情味があったことを、今こうして白根の方をながめるにつけて、思い出さないという限りはありません。眼に見えない面影《おもかげ》ながら、それを思い浮べると、肉附のよい、血色の麗《うる》わしい、細い眼に無限の優しみを持った、年増盛りであったことを思いやらないわけにはゆきません。
お徳の面影が思われると、同じような月夜の晩に、月見草の多い庭で砧《きぬた》を打ちながら、
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甲州出がけの吸附煙草《すいつけたばこ》
涙じめりで火がつかぬ
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と得意の俚謡《りよう》をうたったことが耳に残ります。眼の見えた以前の人は暫く措《お》き、眼が見えなくなってから後の人の面影が知りたい。少しでも眼が見えるようになったとしたら、今までの絶望がまた新たなる希望として現われない限りはあるまい。
その時分は荒れ果てて狐狸の棲処《すみか》となっていた蛇滝の参籠堂に、行者が籠りはじめたと麓の人が噂《うわさ》をはじめたのは、もはや百日ほど以前のことです。その後、夜な夜な女の姿をした人がこの参籠堂へ物を運んで、忍びやかに来ては、忍びやかに帰るということも人の噂《うわさ》に上りました。
人の噂とは言いながら、この山麓であるから、それが拡がったところで大した範囲ではありません。噂は噂だけにとどまって、誰しもその真相をたしかめようとの暇を作るものはありません。その時分こそ廃《すた》ったけれども、その以前は、この滝にかかってかなりの荒行《あらぎょう》をしたものさえあるとのことだから、隠れて行をする信心の行者を妨げるのを恐れ多いとして、やはり噂を噂だけにして、里人はあえて近寄ろうともしません。
百日の間に、参籠堂に籠《こも》って、夜な夜な霊ある滝に打たれてみた時には、信心のなきものもまた、冷気の骨に徹《とお》るものがありましょう。心頭が冷却して、心眼が微かに開くと共に、肉眼に光を呼び起してくることはありそうなことです。
巣鴨、庚申塚《こうしんづか》のあたりの一夜の出来事が縁となって、机竜之助は夢のように導かれて甲州街道を辿《たど》りました。夢で見た時に、自分の眼が明らかにあいて、以前、東海道を上って行った時の旅のすがたで、女を守る駕籠に引添うて河原の宿、小名路の花屋まで来たが、現実はそれと反対に女に誘われて、駕籠に揺られて小名路まで来ました。
そこはこの女の土地で、その好意によって蛇滝の参籠堂に隠れて、ついに今日に到りました。蛇滝の水に霊があるならば、この男の眼を癒《なお》さないという限りもあるまいが、事実、こうして夜歩きをすることは、この高原に来た時とのみ限ったことではありません。全く見えない時ですら、江戸の市中を自在に潜行して人を斬りました。
その時、小仏峠の一点に火が起りました。
大見晴らしから小仏峠へ出る細径《こみち》があります。火はその一点、小仏山の頂上に近いところで起りました。野火というほどのものではありません、まさしく焚火でありましょう。そうでなければ松明《たいまつ》であります。焚火としても松明としても、それが時ならぬ火であることが、怪しいといえば怪しい火です。
尾花の中から、その怪しい火に頭を向けて眼を注いでいるらしい竜之助は、たしかに眼が見えるものです。その手には僧侶の持つ如意《にょい》のような尺余の鉄棒を、後ろにして携えていることも、その時にわかりました。
野分《のわき》の風が颯《さっ》と吹き渡ると、薄尾花《すすきおばな》が揺れます。薄尾花が揺れて高原が海のように動くと、その波の間を泳いで、白衣の鮮かなのが月に背を向けて、山の頂上に近いところから中腹へ下りて来ることは来るが、果してそれがこの高尾の山へ来るのか、それとも右へ廻って与瀬、上野原の方へ下りて行くのか、そのことはまだわかりません。見ているうちにその火が消えました。消えたのではない、隠れたのでしょう。
大見晴らしからながめた小仏の全山は、坊主山とは言いながら、それを与瀬へ下りようとする中腹には林があります。多分、火の光はその林へ紛《まぎ》れ込んだものでしょう。
果してその松林の中を人が通ります。怪しい火と見たのは、その人の手に持っていた提灯《ちょうちん》でありました。その提灯とても、二《ふた》つ引両《ひきりょう》の紋をつけた世間並みの弓張提灯で、後ろには「加」という字が一字記してあるだけです。その提灯を携えて小仏山から下りて、この松林に入って、多分この松林を抜けたらば、また薄尾花《すすきおばな》の野原を、高尾の大見晴らしへ出て山上に詣《もう》でるか、或いは山下の村へ行くものでしょう。
月夜に提灯は、ふさわしくないけれど、これとてもおそらくは、自分の足許を照すためではなく、悪獣や怪鳥の害を避ける要心のためと見れば、さのみ怪しむべきこともありません。怪しいのは、いかに旅慣れたとは言いながら、深夜、この間道を一人で通るという豪胆と、それから、しかく豪胆であらしめた用向そのものであります。
ところが、この豪胆なる旅人は女でありました。笠に、てっこう、きゃはんのかいがいしい身なりをしているけれども、女は女です。しかも背に男の子を一人背負うて、ほかに全く連れとてもなく、この山道を急ぐのであります。
竜之助がもと来た道とは全く別な方面、つまり小仏峠へ出る細径《こみち》のことであります。蛇滝へ帰らないで、この路を行くとすれば、右の怪しい火に心がうつって、それを突き留めてみたくなったのかも知れません。突き留めれば斬ってしまうつもりでしょう。たとえ眼があいても、心の悟りが開けきれない限り、彼のいたずら心は遽《にわ》かに止むべしとは思われません。
来た時の路とは違って、これから小仏へ出るまでは坊主山です。小仏そのものの全体が坊主山ですから、樺木科《かばのきか》の密林も無ければ、松杉科の喬木もあるのではない。ただ薄尾花が一面の原野をなしているのだから、月に乗じて行く白衣の人の影は、そのまま銀のようにかがやいて、野分《のわき》に吹かれて漂うて行くばかりです。けれども、それとても長い間のことでありません。最初は膝のあたりに戯れていた薄尾花も、ようやく胸に達し、ついには人丈《ひとたけ》よりも高くなって、いつしか人影を没してしまいました。月は相変らず天心を西へ少し傾いたところに冴《さ》えてはいるけれども、高原の上は、今や人の影というものはありません。
しかしながら、あちらの小仏山の頂上に近いところに見えた一点の火は、消えたということはありません。極めて小さい火ではあるけれども、火のあるところには人間のあることは確かです。人間が無ければ、それは野火の卵ですけれども、その小さな火が、少しずつ山を下りて来ることによって、人間の手に操《あやつ》られているということは疑うべくもありません。
その女は、徳間峠《とくまとうげ》から縁を引いた山の娘の頭《かしら》のお徳であります。どうしてこの女が、真夜中にここを通るのか。蛇滝の参籠堂にその人がいると知って、わざわざこの難路を訪れるのか。もし、そうであったなら、今宵に始まったことではあるまい。与瀬か上野原あたりに宿を取っていて、夜な夜な参籠堂に物を運ぶというのは、この女の仕事かも知れません。
大見晴らしに立って認め得た一点の火を、それと知ればこそ、竜之助は迎えのために薄尾花の海へ身を隠したのでしょう。蛇滝へ参籠して既に百日にもなるとすれば、その間に、篠井山《しののいざん》の下の月夜段《つきよだん》の里まで消息を通ずることは、あえて難事ではありません。ともかくも峠一つ越えての甲州国内のことですから、女の身でも真心さえあれば、訪ねて来られない道ではないのです。ましてお徳は旅に慣れた女であります。奈良田の湯まで看病に行った時の熱が冷めないでいるならば、遥々《はるばる》かけた呼出しに応じないというはずはありません。お徳の目的はわかりました。たしかに蛇滝の参籠堂をめがけて小仏の裏道を急いだのであります。背に負うている男の子は先夫――というても今も夫があるのではないが、亡くなった夫の子の蔵太郎であることも疑いはありません。
しかしながら、竜之助の気は知れない。遠く白根の山ふところから、かりそめの縁《ゆかり》の女を呼び寄せてどうする気だ。彼には近き現在に於てお銀様があるはずだ。また庚申塚の辱《はずか》しめの時から、夢のようにここまで導いて、蛇滝の参籠に骨を折ってくれた小名路《こなじ》の宿の女も、たしかに宿に隠れているはずだ。理想のない人には、人生が色と慾とよりほかにはない。生きていることが真暗であった竜之助に、人を斬るの慾と、女に接するの慾と、その二つよりほかになかったものか知らん。今、幸いに、何かの恩恵によって、朧《おぼろ》げながら再び人の世の光明を取返しかけたという時に、もう女無しではいられないというのはあまりに浅ましい。呼び迎える男も男だが、それに応じて来る女も女だ。愚かなのは人間のみではありません、虫のうちの最も愚かなのを火取虫と申します。気になるのはこの女の携えている提灯の、後になり先になり二羽の蝶が狂うていることです。あまり気になるから、追ってみたけれども離れません。叱ってみたけれども驚かないで、提灯の上へとまり、後ろへ舞い、その志はひたすら中なる火を取らんとして、焦《あせ》るもののようです。
二つの蝶のうちの一つは白くして小さく、他の一つは黒くして大きなものです。白くして小さきは多分白蝶と呼ぶもので、黒くして大きなるは烏羽揚羽《からすはあげは》でありましょう。この二つだけが提灯のまわりで狂います。
「叱《しっ》、いやな蝶々だこと」
女は気になるから片手で打つ真似をしました。その手をくぐって白いのは後ろへ、黒いのは前へ隠れて、また二つが一緒になって提灯の上へ現われるのは、人をからかっているような仕打ちであります。
猛獣毒蛇も怖ろしいけれども、それは火を見ると逃げます。弱々しい蝶に限って火を見ると、かえってそれを慕い寄るのが怖ろしい。避けるものは身を惜しむことを知っているけれども、寄るものは身を殺すことを惜しみません。火に焦《こが》れて来て、身の程を知らぬ望みのために、身を焼かれることを知らないものは、憐れむべくもまた怖ろしいものです。
「叱《しっ》、あちらへ行っておいで」
この時の蝶は、たしかに戯《たわむ》れているのではなく、噛み合っているのでした。いずれが早く火に触れようかとして、先を争うて噛み合っているのに違いない。
その時、提灯の火がパッと消えました。二つの蝶がその火を消してしまいました。
再び火をつける必要はあります
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