りき[#「がんりき」に傍点]がここに至って吹き出しました。吹き出したけれども剣呑《けんのん》は剣呑です。誰かこんな奴を使って、碌《ろく》でもない文句を吹き込んで、おれの度胆《どぎも》を抜こうとした奴がある。誰というまでもなく、それは南条先生のいたずらに違いないと思うから、ばかばかしくなってその遊び人の面《おもて》をじっとながめました。
 じっとながめられてもこの先生、あまりお感じがないようです。
「兄い、お前《めえ》は男だと思ったら女なのかい、酒井様の御城下でお柳さんというのはお前のことかい」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は呆《あき》れてこう言いましたけれども、その男はがんりき[#「がんりき」に傍点]が呆れたほどに呆れはしません。あっけらかんとしているところは、どうしても誰かに知恵をつけられて、一夜づくりの言葉手形を濫発したものに違いないのです。
 その男が、あっけらかんとしている途端に、四辺《あたり》の稲叢《いなむら》のかげから、同じような程度の遊び人|体《てい》の(旅装の)男がのこのこと出て来ました。
「エ、これは、がんりき[#「がんりき」に傍点]の親分様でございましたか、御免なさんせ、斯様、土足裾取りまして御挨拶失礼さんでござんすが、御免なさんせ、向いまして上《うえ》さんと、今度はじめてのお目通りでござんす、自分、武州は青梅宿、裏宿の七兵衛の一家、若い者八助と発し……」
「ふざけるない、ふざけるない」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が腹を立てると、また一方の稲叢から、のこのこと出て来た同じようなのが、
「エ、これはがんりき[#「がんりき」に傍点]の親分様でございましたか、御免なさんせ、御賢察の通りしが[#「しが」に傍点]なき者でござんす、後日にお見知り置かれ、行末万端ごじゅっこんに願います。承るところによりますと親分様には……」
「やい、何を言ってやがるんだい、冗談もいいかげんにしねえと撲《なぐ》るぜ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が、ぽんぽん言っているのに頓着なく、ひきつづいて稲叢の後ろから二人三人と出て来ては、入り替り立ち替り同じような挨拶を述べるのだから、がんりき[#「がんりき」に傍点]もやりきれない。その言うことを聞いていると挨拶の末には、親分はこれから江戸へ出て面白い仕事をなさるのだそうだが、どうか自分たちを子分にして、その仕事に一口《ひとくち》乗せて下さいというのであります。その面白い仕事というのは、南条力からそそのかされた一件であることを、その連中はよく承知の上で、こういうことを言いかけるものだということがよくわかります。同時にこの連中をつっついて、こんな悪戯《いたずら》をさせたのはほかでもない、南条力のいたずらであることがよくわかります。
 そこでがんりき[#「がんりき」に傍点]は、南条の人の悪いのに苦笑いをしていると、取巻いて来た連中の口説《くど》き立てることが、いよいようるさいので閉口です。
「クドいやい、この胡麻《ごま》の蠅《はい》め」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、この連中を振切って通り過ぎようとすると、その袖に縋《すが》って、
「御免なさんせ、御賢察の通りしが[#「しが」に傍点]なき者でござんす、後日にお見知り置かれ、行末万端ごじゅっこんに願います、このたびは親分様のお引立てにより、江戸表へお召連れ下さんして……」
 追いかけて来るのだから、どうにも困ったものです。
「わかった、わかった、お前たちは、いやに切口上で遊び人づきあいをしたがるけれど、あとの半分が物になっちゃいねえ、誰かに教えられた附焼刃《つけやきば》だ、いいから、そうしていねえ、一人前に二分ずつやる」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は金で追払おうとすると、遊び人どもは、
「御免なさんし、手前、金銭に望みはござんせん、親分様のお手先になって、江戸表へお伴《とも》が致しとうござんす」
「勝手にしやがれ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は出しかけた財布をひっこめたが、手早く手近な奴の横面を一つ撲り飛ばしておいて、一散に八王子の方面へと走り出しました。
「御免なさんし、親分様、お江戸までお伴《とも》が致しとうござんす」
 これらの遊び人どもが、がんりき[#「がんりき」に傍点]のあとを慕ってどこまでも追いかけるのは、かなりしつこい[#「しつこい」に傍点]ものです。

         十一

 この時分、高尾山薬王院の奥の院に堂守をしていた一人の老人がありました。
 以前、不動堂がまだ麓《ふもと》の登り口にあった時分は麓にいたが、不動堂が頂上の奥の院へ遷《うつ》されると共に、この老人もまた頂上へ移りました。
 この老人の前生を聞くと、やはり一個の武芸者であったようです。少壮の頃より諸国を修行し、年老いてここの堂守となりました。齢《よわい》はもう七十を越しているから、武芸の話は問う人でもなければ滅多にすることはないが、発句《ほっく》を好んで自らも作り、人を集めては教えておりました。麓にいる時分にはこの老人を中心として、よく運座が催されたものですけれども、頂上へうつってはそのことがありません。発句の代りに一陶《いっとう》の酒を楽しんで、ありし昔の夢に耽《ふけ》りながら、多年の間、山上でひとり夜を明かすことを苦なりとはしていません。
 ある晩――ちょうど、十六日の月が東から登って、満山ことごとくその月光を浴びた夜半のことであります。この奥の院近くに人の足音を聞きましたから、老人は坐ったまま居間の扉を押開いて、傍《かたわ》らにあった瓶子《へいし》を取って逆《さか》しまにし、その水を外へこぼすと、その傍らを風のように通り抜けた人があります。
 瓶子を片手に、長い白髯《はくぜん》を撫でながら堂守の老人は、その後ろをじっとながめました。奥の院から大見晴らしへ通る木の根の高い細道へ、その人は早くも隠れ去って影だに残してはいません。そこにはおもに樺木科《かばのきか》の植物が多いから、あるところは、ほとんど月の光をも漏らさぬ密林です。
 老人は後ろを見送ったままで小首を捻《ひね》りました。今は、たしかに丑三時《うしみつどき》、麓の若い人から頼まれた発句の点をして、今まで夜更かしをしていたが、ようやくそれを終ったから瓶子を洗って、また一陶の酒を汲もうとしている時に、この人影でしたから、老人が沈吟をはじめたのも無理はありません。時は既望《きぼう》の夜で、珍らしいほどに霽《は》れた空の興に浮かれて月を観る人が無かろうはずはないが、月といっても今宵に限ったことはない。未だ曾《かつ》てこの夜更けに、一人でこの頂上までさまよい来る風流人はありませんでした。
 しかしながら、年をとっては無精《ぶしょう》ですから、わざわざそれを追蒐《おいか》けてみようとの好奇心も動かず、やがてハタと戸を締めきってしまいました。このあたりでは鳴かない怪禽《かいきん》が、やや下ったところの飯綱権現の境内の杉の大木の梢では、しきりに鳴きます。奥の院から山脊《さんせき》を走るところの樺木科の多い大見晴らしへの道は、筑波の男体から女体に通う道とよく似ております。月の光も漏らさないほどの密樹を分けて、やはり大見晴らしへ通う人があります。堂守の老人の見たのが僻目《ひがめ》ではなく、或る時は、さやけき月の光を白衣に受けて、それが銀のようにかがやき、或る時は、木の下暗に葉影を宿してそれが鱗のようにうつります。道の程、八丁ばかりのところを、よれつもつれつ走って行く人の形が、時とすると白蛇ののた[#「のた」に傍点]って行くやと疑われます。
 高尾の本山から右へ落つる水が妙音の琵琶の滝となって、左へ落つるのが神変の蛇滝《じゃだき》となるのであります。琵琶の滝には天人が常住琵琶を弾じ、蛇瀑《じゃばく》の上には倶利迦羅《くりから》の剣を抱いた青銅の蛇《じゃ》が外道降伏《げどうごうぶく》の相を表わしている。その青銅の蛇が時あってか、竜と化して天上に遊ぶことがあるそうです。禹門三級《うもんさんきゅう》の水は高くして、魚が竜と化するということだから、蛇滝の蛇が竜となって天上に遊ぶのは当り前です。けれどもこれは左様なものではありません。人界の竜か、みみずか、行者の着る白衣を着ている机竜之助が、密林の細径を出でて薄原《すすきばら》の大見晴らしの真中に立っています。

 高尾の山の大見晴らしは、誇張することなくして関東一の大見晴らしということができるでしょう。この大見晴らしを絶頂とする高尾の山は、名の示す通りに山というよりは山の尾であります。二千尺を越ゆることのない地点ではありながら、その見晴らしの雄大広闊な趣が無類です。
 その地点だけは、樹木といっては更にない一面の薄原で――薄原といっても薄だけが生えているというわけではなく、薄も、尾花も、苅萱《かるかや》も、萩も、桔梗も、藤袴も、女郎花《おみなえし》もあって、その下にはさまざまの虫が鳴いています。
 ここに立って東を望むと、高尾の本山の頂をかすめて、遠く武蔵野の平野であります。東に向ってやや右へ寄ると、武蔵野の平野から相模野がつづいて、相模川の岸から徐々として丹沢の山脈が起りはじめます。それをなおずっと右へとって行けば甲州に連なる山また山で、その山々の上には富士の根が高くのぞいているのを、晴れた時は鮮かに見ることができます。それを元へ返して丹沢の山つづきを見ると、その尽くるところに突兀《とっこつ》として高きが大山《おおやま》の阿夫利山《あふりさん》です。更に相模野を遠く雲煙|縹渺《ひょうびょう》の間《かん》にながめる時には、海上|微《かす》かに江の島が黒く浮んでいるのを見ることができます。
 この時に、素人は、どうかすると相模川を多摩川と見誤ることがあります。ややあって多摩川を発見して、あれは利根か知らんと訝《いぶか》る者もありますけれど、少しく頭を冷やかにして地理を案ずれば、その区別は苦にするほどのことではありません。
 人跡《じんせき》の容易に到らない道志谷《どうしだに》を上って行くと、丹沢から焼山を経て赤石連山になって、その裏に鳥も通わぬ白根《しらね》の峰つづきが見える。富士の現われるのは、その赤石連山と焼山岳の間であります。空気のかげんによっては、道志谷の山のひだが驚くばかりハッキリして、そこを這《は》う蟻の群までが見えるような心持がする。
 やはり東を向いたままで、関東の平野を左の方にながめてゆくと、筑波と日光の山を見ることができます。月の出るてう武蔵野の西の涯《はて》に山があって、そこがすなわち秩父根《ちちぶね》であります。秩父の山と上毛の山とは切っても切れない脈を引いている。妙義も、榛名《はるな》も、秩父を除いては見ることも答えることもできないほど微かに、信濃なる浅間の山に立つ煙がのぼるのを眺めた時に、心ある人は碓氷峠《うすいとうげ》の風車を思い出して泣きます。
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碓氷峠のあの風車
誰を待つやらクルクルと
[#ここで字下げ終わり]
 その碓氷峠は想望するのみで、ここから見ることはできないが、小仏峠はすぐ眼前に聳《そび》えているのがそれです。東へ向っていたのをグルリと西へ向き返って見ると、高原の鼻の先にお内裏雛《だいりびな》のお后《きさき》にそっくりの衣紋《えもん》正しい形をしたのが小仏山で、駒木野の関所から通る小仏峠道はその上を通ります。
 小仏の背後に高いのが景信山《かげのぶやま》で、小仏と景信の間に、遠くその額を現わしているのが大菩薩峠の嶺《みね》であります。転じて景信の背後には金刀羅山《こんぴらやま》、大岳山《おおたけさん》、御岳山《みたけさん》の山々が続きます。それから山は再び武蔵野の平野へと崩れて行くのだが、小仏の肩を辷《すべ》って真一文字に甲州路をながめると、またしても山また山で、街道第一の難所、笹子の嶺《みね》を貫いて、その奥に甲信の境なる八ケ岳の雄姿を認める。富士をのぞいてすべての山がまだ黒い時分に、まず雪をかぶるのは八ケ岳です。
 こうして見ると高山があり、峻嶺があり、丘陵が
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