れ猿橋のありまする桂川で、それがここいらへ来ては相模川になります、これからずっと下《しも》へさがると馬入川《ばにゅうがわ》で、東海道は平塚のこっちの方へ流れ出すのがそれでございますな、秋になると鱗《うろこ》の細かい鮎が漁《と》れて、ギョデンで食うと、ちょっと乙でございますよ」
 待伏せていたのが案内ぶりに、こんなことを言いながら先に立って歩き出したのを見ると、なんの珍しくもない、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵でありました。
「そうか。そうして荻野山中《おぎのやまなか》はどの辺に当るんだ」
「山中はここですよ、向うの林に柿の木が見えましょう、あれと尖《とんが》った山の間あたりになりますな、あの山は鳶尾山《とびおざん》というんで、あれに抱かれてこうなったところに荻野山中、大久保長門守一万三千石の城下があろうというもんです、たとえ一万石でも、あんな山の中に御城下があろうというのは、ちょっと素人《しろうと》が驚きます」
「なるほど」
「なーに、ほんの一足です、真直ぐに引張れば五里といったところでしょうけれども、いったん厚木へ出て戻るのが順ですから、延べにして八里と見積れば、たっぷりです」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の案内ぶりによって見れば、南条は、右の荻野山中、大久保長門守一万三千石の城下なるものへ志して行こうとするものらしい。無論がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、案内を兼ねてそこまで同道するものと思われる。
 こうして二人は相模野《さがみの》を歩き出しているうちに、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が、
「さて南条様、つかんこと[#「つかんこと」に傍点]を承るようでございますが……」
 事改まって、仔細らしい物の尋ねぶりであります。
「何だ」
「ほかではございませんが、あの相生町のお屋敷というものも、ずいぶん変てこなお屋敷でございますな」
「うむ」
「先頃まで、御老女様という大へんにけんしきの高いお年寄が采配《さいはい》を振っておいでになりましたが、近頃では、すっかり浪人者で固めておしまいになりましたね」
「うむ」
「ところが南条様、相手かわれど主《ぬし》かわらずというんでもございましょう、かわらないのは、やっぱりかわりませんな」
「何を言っているのだ」
「御老女様だけが抜けて奥向の方は、すっかりかわらないじゃございませんか」
「あの屋敷には、奥も表もありはせん」
「御冗談でしょう、奥方はおいでにならずとも、奥向の女中たちの綺麗《きれい》なところが、うようよといるはずでございます」
「そりゃあ、いかなる屋敷でも、女手をなくするというわけにはゆくまい」
「先生、ところで一つお聞き申したいのは、あの別嬪《べっぴん》は、ありゃあ今じゃあどなたの持物になっているんでございます」
「あの別嬪とは誰のことだ」
「お恍《とぼ》けなすっちゃいけませんね、多分あなた方が甲州から連れておいでになったんだろうと思いますが、ただ、ああして預かりっぱなしにしてお置きなさるのか、それともほかにもう定まる主がおありなさるのか、その辺が気になってたまらないから、いつか、あなたにお聞き申してみたいみたいと思っていたところです」
「ふん、早い奴だな、もう、あれを知ってるのか」
「先生、余人ならぬがんりき[#「がんりき」に傍点]の百をみくびりっこなし、人の物でもわが物でも、一旦もの[#「もの」に傍点]にしようと思ったら、逃《のが》したことのねえがんりき[#「がんりき」に傍点]の百でございます」
「それで貴様、あの女をもの[#「もの」に傍点]にしてみるつもりでもあるのか」
「ははは、先生、あればっかりはいけませんよ」
「ふーん」
「先生、いやな嘲笑《あざわら》いをなすっちゃいけません。なるほど、たったいま申し上げた通り、もの[#「もの」に傍点]にしようと思えば、どんな物でもきっともの[#「もの」に傍点]にして見せるがんりき[#「がんりき」に傍点]ではございますけれど、あれだけがもの[#「もの」に傍点]にならないというのは、失礼ながら、あのお屋敷にああしてたくさんの豪傑が詰めておいでになるから、それにがんりき[#「がんりき」に傍点]ほどの者がすくんで手を引いているなと、こう思召しになっては違いますよ、どなたが幾人おいでになろうとも、それを怖がって、もの[#「もの」に傍点]になるものをみすみすそのままで置いては、がんりき[#「がんりき」に傍点]の沽券《こけん》にかかわります。正直のところ、覘《ねら》いをつけてみたことも無いではございませんが、怖いですよ、このがんりき[#「がんりき」に傍点]ほどの男が慄《ふる》え上ってしまいました」
「意気地のない奴だな」
「全く意気地がございません」
「何がそれほど怖いのだ」
「は、は、は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の目には、あなた方は怖くはございません、江戸の町奉行や市中の金持は、あなた方を怖がって慄え上るかも知れませんが、私共はそれほど怖いとは思いませんよ。ただ、怖いのはあの犬です、あの黒犬だけには、がんりき[#「がんりき」に傍点]も怖毛《おぞけ》をふるいますよ、あの犬がついている以上は、もの[#「もの」に傍点]になるべきものももの[#「もの」に傍点]になりません」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]がここで怖ろしがる犬というのは、ムク犬のことです。ムク犬に護られているから、お君というものに、いかなる意味においても一指を加えることのできないのを、南条の前でこぼしているのは、この男相当の愚痴であります。
 南条は充分の揶揄気分《からかいきぶん》を以て、
「がんりき[#「がんりき」に傍点]」
「はい」
「貴様、それほどに男自慢なら、左様に怖い思いをせず、もっと面白い獲物《えもの》があるのだが、相談に乗ってみる気はないか」
「ずいぶんやりやしょう」
「器量はなんとも言えないが、格式はあれよりズット上だ」
「なるほど」
「あれは貴様も知っている通り、駒井甚三郎の寵物《かこいもの》だ、駒井は甲州勤番支配で三千石の芙蓉間詰《ふようのまづ》めの直参《じきさん》だが、ここへ持ち出したのは大諸侯だ」
「お大名なんですね……」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が咽喉《のど》から手の出るような返事をする。
「そうだ、それを一番、貴様がもの[#「もの」に傍点]にしてみる気なら、尻押しをしてやるまいものでもない」
「御冗談をおっしゃっちゃいけません、あなた方に尻押しをしていただかないからって一人でやりますよ、昔の鼠小僧なんぞは一人でお大名の奥向を、どの位荒したか知れたもんじゃありません、そういう仕事は一人に限りますよ」
「よろしい、それでは貴様に知恵をつけてやろう、ほかでもないが相手は出羽の庄内で十四万石の酒井左衛門尉だ。今、江戸市中の取締りをしているのが酒井の手であることは貴様も知っているだろう、我々にとってその酒井が苦手であることも貴様は知っているだろう、酒井は我々の根を断ち、葉を枯らそうとしている、我々はまたそこにつけ込んで酒井を焦《じ》らそうとしている、その辺の魂胆《こんたん》はまだ貴様にはわかるまい、わかって貰う必要もないのだが、貴様の今に始めぬ色師自慢から思いついたのは、酒井左衛門尉の御寵愛を蒙《こうむ》った尤物《ゆうぶつ》が、いま宿下りをして遊んでいることだ。それは佐内町《さないちょう》の伊豆甚という質屋の娘で、酒井家に屋敷奉公をしているうち殿に思われて、お手がついてお部屋様に出世をして当時は、ある事情のもとに宿下りの身分であるという一件だ。その名はお柳《りゅう》という。これだけのことを聞かせてやるから、あとは貴様の思うようにしてみろ」
 南条は平気な面《かお》で、これだけのことを言いました。いったい、この南条という男は、ある時は慨世の国士のようにも見え、ある時は、てんで桁《けた》に合わないことを言い出して、掠奪や誘拐を朝飯前の仕事のように言ってのけもする。
 ここにはまた勧めるのにことを欠いて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵というやくざ[#「やくざ」に傍点]者に向って、こんなことをも勧めたのは、油紙へ火をつけてやるようなものです。ただでさえも、そういうことをやりたくって、やりたくって、むずむずしている男に向って、こう言って筋を引いては堪ったものではありません。つまり、いま江戸市中の取締りに当っている出羽の庄内の藩主、酒井左衛門尉の愛妾を盗み出せとけしかけたものです。
「先生、がんりき[#「がんりき」に傍点]を見込んでそうおっしゃって下さるのが有難え」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、額を打って恐悦しました。

         十

 多分、厚木へ一晩泊り、荻野山中《おぎのやまなか》へ南条を送りつけて一晩泊ったのであろうと思われるがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、前と同じ道を逆に八王子方面へ向けて帰り道です。
 南条は多分荻野山中に逗留《とうりゅう》していることだろうが、あの先生、あんな山の中の城下に逗留して何事を為さんとするのか、へたなことをして、また甲府の二の舞を踏んで牢屋へ叩き込まれるようなことをしなければよいが。
 南条を残して、独《ひと》り帰るがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、ほくそ笑みして、何とやら包みきれぬ嬉しさが面《かお》にいっぱいです。これもまた相当の謀叛気があって、当りがついたことから嬉しさが包みきれないものと思われる。
「もし、あなた様はがんりき[#「がんりき」に傍点]の親分様ではございませんか」
 これには、さすがのがんりき[#「がんりき」に傍点]が少し吃驚《びっくり》させられました。と言うのは、以前、来る時に自分が立って待伏せしていた路傍《みちばた》の松の木の下に立って、同じような形をして自分を待受けていたのが、思出し笑いをしながら歩いているがんりき[#「がんりき」に傍点]の横合いから不意に浴びせかけたものですから、そこでがんりき[#「がんりき」に傍点]が吃驚《びっくり》して踏みとどまると、
「エ、これはがんりき[#「がんりき」に傍点]の親分様でございましたか、御免なさんせ、斯様《かよう》、土足《どそく》裾取《すそと》りまして、御挨拶失礼さんでござんすが、御免なさんせ、向いまして上《うえ》さんと、今度はじめてのお目通りでござんす、自分は相州足柄|上秦野《かみはたの》の仁造《にぞう》の一家、唐駒《からこま》の若い者市助と発し……」
 ともかく相当の心得ある博徒と見えて、切口上で賭博打《ばくちうち》の言葉手形を本文通り振出したから、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵もいよいよ面食《めんくら》いました。百蔵とても、こうして無宿渡世のならず[#「ならず」に傍点]者だから、その道の挨拶ぐらいを心得ていないはずはないが、この畑道の真中で、だしぬけにこんな挨拶を受けようとは思いもよらないことです。
「まあ、待っておくんなさい」
 ことがあんまり突然だから、がんりき[#「がんりき」に傍点]も改まって同様の挨拶で返答をすることができません。
「御賢察の通りしが[#「しが」に傍点]ない者でござんす、後日にお見知り置かれ、行末万端ごじゅっこんに願います。承りますれば親分様には……」
 こちらは面食っているのに、先方はいよいよ澄まし返って、賭博打の言葉手形を正式に振出して来るのだから堪らない。第一、自分が、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵なるものだということを、この遊び人がどこから聞いて来たろう。様子ありげにここに待伏せて、わざわざ名乗りかけようとするのが、気味が悪いと言えば甚だ悪い。ところがその遊び人は遠慮なく喋り立て、
「親分様には、これより江戸表へおいでなさんして、お仕事をなさるそうに承りましたが、手前、しが[#「しが」に傍点]なき者でござんすが、お手下にお使い下さいますれば有難い仕合せにござんす。手前、生国《しょうごく》と申しまするは、出羽は庄内、酒井左衛門尉の城下十四万石、伊豆屋甚兵衛の娘お柳と発しまして……」
「ばかにしてやがる」
 がん
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