まい。月の光が明るいのに、そこらあたりには大文字草《だいもんじそう》と見える花がいっぱいに咲いております。
「もし」
消えた提灯を持って空しく立っていたお徳は、人を呼びかけました。やや離れたすすき尾花の中に朦朧《もうろう》と人の影があります。
「あなたは、どちらからおいでになりました」
「蛇滝から」
というのがその返事です。
「ここまで、わたくしを迎えに来て下さいましたか」
お徳は息をはずませて、問いかけました。
「月が好いから、つい」
「ああ、よくおいで下さいました」
二人はまだ離れて立っています。
「まあ、わたくしは、どんなにあなた様のことを心配しておりましたでしょう、甲府へおいでになってから後も、それとなくお尋ねしてみましたけれど、一向わかりませんでした、お消息《たより》をいただくと、取るものも取りあえずにこうして急いで参りました。お目はいかがでございます、もう、お見えになるようになりましたようでございます、それが何よりでございます」
お徳は、やはり息をはずませて言う言葉です。それでも、二人は、すすき尾花の中に、やや距離を置いたのみで、相ちかよることを致しません。
「眼が少し見えるようになりました、薄月《うすづき》の光で物を見るほどになりましたわい」
「それは何よりでございます、どうしてそれまでにおなりなさいました」
「この下の蛇滝というのに、百カ日ほど打たれているうちに、おのずから光がさして来ました」
「それで、もうこんなに山道をお歩きになって毒ではございませんか、お疲れにはなりませんか」
「一向、疲れはせぬが、久しぶりでそなたに会ったこと故に、あの松原で暫く休息して、ゆっくり物語をしたいものじゃ」
「それもよろしうございますが、蛇滝のお堂とやらまでお伴《とも》を致しましょうか」
「参籠堂へは、やっぱり女人は近づかぬがよい、行って見たところで何の風情《ふぜい》もない、それよりか、あの松原の月の光の洩れるところが休みごろ、話しごろと思われる」
「では、あれへお伴を致しましょう」
「後へ少し戻ってもらいたい」
「どうぞ、あなた様からお先へ」
高尾と小仏の中のすすき尾花の高原の中に立った二人は、たがいにその細い道を譲りました。けれども二人の中に、距離のへだたりがあることが変りません。
一方は、火の消えた提灯を持って、懐しさに息をはずませておりながら、その人に近寄ろうとはせず、一方も、わざわざ迎えに来たと言いながら、むしろ、人には背《そびら》を見せて月に心を寄せるように、すすき尾花の中に立っていました。
「細い道だから、遠慮をしていては際限がない、一足お先に」
こう言いながら、お徳の前を通り抜けた竜之助の白衣が透きとおりました。その腰から裾へ朧染《おぼろぞめ》のように、すすき尾花が透いてうつりました。そうしてなんらの音もなく、風の過ぎ去るようにお徳の前を通ると、二三間の距離を置いて松原さして歩んで行きます。
この時にまた提灯の光がパッとさしました。気を利かせたお徳が早くも提灯に火を入れたものか、そうでなければ、いったん、消えたと見えたのが、消えたのでなく、また燃え出したのでしょう。
提灯の光が再び松林の中へ入ったのは、久しい後のことではありませんでした。
竜之助は松林の、夜露のかからないようなところへゴロリと横になりました。いたいけな藤袴《ふじばかま》が、それに押しつぶされ、かよわい女郎花《おみなえし》が、危なくそれを避けています。
疲れのせいか横になって、うつらうつらと眼を閉じていると、暫くして紛《ぷん》と鼻を撲《う》つ酒の香りがしました。それはあまりに芳烈な清酒の香りであります。
思いがけなく眼をあいて見ると、いくらも離れないところの松の木蔭で、お徳が火を焚いていました。手頃の木の枝を三本組み合わせて、それに土瓶をつるして、下に枯葉を置いて程よく火を焚いているのは、その土瓶をあたためているのです。いつのまに用意して来たか、それとも前の日あたりにこの林へ隠してでもおいたのか、土瓶の中には黄金色の清酒《すましざけ》が溢れるほど満ちていることは、その香りでわかります。その焚火と向い合わせに、背中から下ろした蔵太郎を坐らせて、余念なく火を焚いていたが、こちらを向いて、
「もし、お目ざめならば、一口召上って下さいまし」
こう言われてみると、秋の日に晴れて松茸狩《まつたけがり》に来たもののような気分です。
「どうしてまたこんなところまで、酒を持ち込んで来たのだろう」
竜之助はそれを訝《いぶか》りながら、懶《ものう》げに起き直ろうとする鼻の先へ、例の土瓶と小さな茶碗をもって来ました。
「さだめし御不自由でしょうと思って、昨日のうちに、お酒とお米を少しばかりここへ持って来ておきました、山を通る時に松茸もありましたから、これも取って参りました、これを召上ってお待ち下さいませ、ただいま御飯を炊《た》いて差上げますから、松茸の即席料理を、わたくしの手でこしらえて上げようと存じます、温かい御酒と、温かい御飯を差上げたいと思いまして」
酒を手に取らないうちに、竜之助は酔わされた心持です。口をつけると上燗《じょうかん》に出来上っている酒の香りが、五臓六腑に沁《し》み渡ります。
「ああ」
と言って咽喉《のど》を鳴らしました。温かい酒と、温かい飯の誘惑が、己《おの》れを物狂わしくするのを制することができません。
土瓶の中を立てつづけに飲みました。義理も人情もなく飲みつくしてしまいました。
その間にお徳は、更に温かい飯と、新しい松茸の料理にかかるべく焚火を加えて、その火加減をながめています。それによって見ると、飯を焚いているのではなく蒸しているものらしい。よく山の旅に慣れているものがするように、湿気のある土地に穴を掘って木の葉を敷き、それに米を入れてまた木の葉と土とかぶせて、上で焚火するという仕組みでやっているものらしい。松茸の料理というのも、多分そうしてこしらえるのでしょう。
温かい酒と、温かい飯とに瞑眩《めいげん》した竜之助は、久しく潜んでいた腥《なまぐさ》い血が、すっと脳天へ上って行くのを覚えます。この時に、むらむらと人が斬りたくなりました。眼に触るる人を虐《しいた》げて、その血を貪《むさぼ》ってやりたい心持が、ようやく首を持ち上げてみると、刀のないことが、もどかしくてたまりません。腰をさぐってみたけれど刀がありません。
ぜひなくその心をじっと抑えて、また弱々しい女郎花《おみなえし》を虐げて横になって、かすかに眼を開くと、焚火にかがやくお徳の血色というものが、張り切れるほどに豊満な肉を包んでいました。
百カ日の参籠ということによって、辛《かろ》うじて恵まれた肉眼の微光は、その間、やむことを得ずしてさせられた精進潔斎《しょうじんけっさい》の賜物《たまもの》であるとわかっているならば、再び人間の肉と血を見ることによって、もとの無明《むみょう》の闇に帰りたくはなかろう。肉と血を見ないことによって光が恵まれ、肉と血を見ることによって光が奪われるということなら、人間というものの生涯も、厄介至極なものではありませんか。
底本:「大菩薩峠6」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 四」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※「小金ケ原」「八ケ岳」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2002年11月10日作成
2003年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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