一本の下をグルグルと廻りはじめたが、刀の小柄《こづか》を抜き取りその松の木に、ビシリと突き立てて行ってしまいました。
 兵馬の立去ったあとで、その松の木の傍へ寄って見て、はじめて小柄の突き立てられてあることを知り、忠作はそれを無雑作に引抜いて、松の木には目じるしの疵《きず》をつけ、またも兵馬のあとをつけて行きます。
 兵馬は朴歯《ほおば》の下駄かなにかを穿《は》いている。忠作は草鞋《わらじ》の御用聞。両人ともに歩きも歩いたり、芝の三田から本所の相生町まで、一息に歩いてしまいました。
 さて、相生町へ来ると兵馬が例の老女の家へ入ったのを、忠作はたしかに見届けました。
 ここまで来てみると、いったい、この家は何者の住居であるかということを突き留めて帰らねばなりません。忠作は屋敷の周囲を二三度まわりました。
「こんにちは、まだ御用はございませんか」
 裏口へ廻って、こんな声色《こわいろ》を使ってみると、
「三河屋の小僧さん?」
「はい」
「ちょいとここへ来て手を貸して下さいな」
「へえ、承知致しました」
 呼び込まれたのを幸いに、潜《くぐ》りから長屋へ入り、
「こんにちは」
「小僧さん、後生
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