に瞑眩《めいげん》した竜之助は、久しく潜んでいた腥《なまぐさ》い血が、すっと脳天へ上って行くのを覚えます。この時に、むらむらと人が斬りたくなりました。眼に触るる人を虐《しいた》げて、その血を貪《むさぼ》ってやりたい心持が、ようやく首を持ち上げてみると、刀のないことが、もどかしくてたまりません。腰をさぐってみたけれど刀がありません。
 ぜひなくその心をじっと抑えて、また弱々しい女郎花《おみなえし》を虐げて横になって、かすかに眼を開くと、焚火にかがやくお徳の血色というものが、張り切れるほどに豊満な肉を包んでいました。
 百カ日の参籠ということによって、辛《かろ》うじて恵まれた肉眼の微光は、その間、やむことを得ずしてさせられた精進潔斎《しょうじんけっさい》の賜物《たまもの》であるとわかっているならば、再び人間の肉と血を見ることによって、もとの無明《むみょう》の闇に帰りたくはなかろう。肉と血を見ないことによって光が恵まれ、肉と血を見ることによって光が奪われるということなら、人間というものの生涯も、厄介至極なものではありませんか。



底本:「大菩薩峠6」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(
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