ないことが哀れです。誰かしかるべき人に預けたのがよかろうと、それは幾度も思案にのぼらないではありません。けれども、こうなってみると、預けた先も心配になるし、預けるというそのことも心配になります。たとえば道庵先生とか、盲法師の弁信とかいうような者に、事情を打明けて頼めば、いやとは言うまいけれど、米友の気象では、そう言って頼むのが癪にさわります。なんだか自分が、この一幅の画像に怖れをなして、逃げ隠れでもするように見られるのが癪にさわらない限りもない。それで米友は、しかるべき相談相手を求めようとする気にもならないのであります。自分で自分の心が済むように始末しなければ、男の一分が立たないように思われてなりません。ですから、土にかじりついても、この画像だけは自分で始末をしようとして、煩悶《はんもん》しながら歩いているのです。
ところが、これほど煩悶している米友の眼の前へ、ちらちらと不動様のお姿が現われます。今までは夢にのみ現われた不動様が、米友がこうして煩悶していると、ありありとその怖い面を向けて米友を睨《にら》みつけるのだから、米友は焦《じ》れるばかりです。いったい、不動尊という奴がなんの恨みがあって、おれにこうして附き廻るのだ。今までに米友は、なにも不動様に恨まれるようなことをした覚えがない。夢になり、うつつになって自分の眼先へちらついて、こうまで俺を苦しめる不動様という奴の了見方《りょうけんかた》がわからねえと、米友は腹が立ってたまりません。
米友の風采《ふうさい》もかなり奇怪に出来てはいるが、どうも不動様とは太刀打ちができないらしい。ややもすればその不動様に睨みすくめられてしまうのが残念でたまらない。事実あるものならばそれでもよいが、画像はこうしてクルクルと捲き込んでしまってある以上は、この世のいずこを尋ねても、不動様なんていうものがあったらお目にかかる。ありもしないえそらごとの不動様に、夜も昼も睨められて、こっちの睨みが利かなくなるとは、腹が立って腹が立ってたまらない。腹が立つけれども、どうも喧嘩の相手がないには閉口です。相手といえばこの画像だが、さてこの画像を相手に、どう処分していいか、それの思案に思い悩まされているのだから、どうにもこうにも仕方がない。
いつのまにか米友は、柳原の土手の通りを通り過ぎて、加賀ッ原のところまで来て見ると、加賀ッ原の真中に足軽の
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