くてか、「大乱《おおみだ》れ」という形になっていました。これは多数の太刀《たち》を相手に応対する時、十文字槍の人が好んで用ゆる姿勢で、槍を中取《ちゅうど》りに持つのを米友は、もう少し突きつめているだけが違います。この姿勢で充分に使わせると、左右を薙《な》ぎ立てることができます。近寄るのを追払って寄せつけないことができます。また薙刀《なぎなた》をつかうと同じように使って、敵を左右へ刎退《はねの》け、突きのけることもできます。面と、腕と、膝との三段を、透間《すきま》もなく責め立てて敵を悩ますこともできます。太刀を取って向って来るものを上段に突き出して、脇架《わきか》に大きく引き取ることも自在です。米友は心あって宝蔵院流の大乱れの型を用いているのではなかろうけれど、その構えがおのずからそうなっていることは争えません。争えない証拠には、タジタジと後ろへさがる者はあっても、米友の槍先に向って行こうとする者がないのであります。
米友が大乱れに取っていることが、米友自らの気取りでないくらいだから、立っている者もまた、本式にそれを受取ることのできないのは勿論《もちろん》です。ただ精悍無比《せいかんむひ》……というよりは無茶なその挙動が、すべての人の荒胆《あらぎも》をひしぎました。気狂いの刃物には、うっかり近寄らないがいいという聡明さが、タジタジと、さすがの命知らずをも後しざりさせたものと見えます。
実際また竜之助に離れて以来、不動の夢を見つづけに見てからの米友というものは、気狂いにこそならないけれども、その心理作用に異常な焦《あせ》りがありました。建具屋の平吉なるものの災難を聞いたところで、一種の義憤を含む例の短気がむらむらと萌《きざ》したことは、この男としては寧《むし》ろ可愛いところであって、いつもいつもそれがために得をしてはいない。その度毎に命の綱渡りのようなことばかりしているのだが、幸いに、危ないところで一命だけはとりとめているのだが、それにしても今日のはあまりに無茶です。
もし、取巻いている奴等が突っかかって来たら、縦横無尽に突き立てるつもりか知らん。いつか甲州道中の鶴川で、川越し人足を相手にやった二の舞を、そこでもやり出すつもりか知らん。あの時は幸いに、駒井能登守という思いがけない仲裁人が出て来て、頭を坊主にされて納まったけれども、今日はあの伝ではゆくまい。能登守の
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