せたことは、お角にとっては仏様でありました。口惜《くや》しまぎれに七兵衛に向ってこのことを語り出すと、七兵衛が面白がって、
「そいつは面白い、そういうふうに仕かけられたんでは、こっちもそのつもりで喧嘩を買わなくっちゃならねえ。しかしお角さん、お前がムカッ腹でどなり込んで行った日には先方の思う壺だ、なんとかいい知恵はねえものかなあ」
七兵衛が面白半分に頭をひねって、小膝をぽんと打ち、
「いい知恵が一つ湧いて来た、それをお前さんに授けるから、上手にやってごらんなさい。その知恵というのはこういうわけなんだ、当人のお絹さんへぶつかっちゃいけないよ、あれはたかをくくったように見せかけておいて、搦手《からめて》から、神尾の大将を責めるんだね。その責道具というのはこういう仕組みにするといい、まず、神尾の殿様へ使を立てて、このたび、ぜひ殿様にお目ききを願いたい掘出し物が出ましたとこう申し上げるんだ、それは何だと来る、お腰の物でございます、刀でございますとこう申し上げると、刀は誰の作だとお言いなさるにきまっている、それはほかではございません、伯耆《ほうき》の安綱でございますと申し上げると、きっと神尾の殿様の眼の色が変るに違いない、そこを附け込んで……ところで、その伯耆の安綱は、もともと神尾の殿様のお持物でございますから、決して代金をいただこうとは存じませんが、お言葉に甘えまして、ただ一品《ひとしな》の望みがございます、その一品と申しますのは、お絹様のお手許においでなさる子供を、決してお絹様のお手からいただこうとは存じませぬ、殿様のお手ずから……こんなことに持ちかけてごらん」
それをお角は大喜びで、悉《ことごと》く呑込んでしまいました。
七兵衛は、お角に知恵を授けてから、持って来た箱入りの品物を手渡ししました。これが伯耆の安綱でありましょう。この時の安綱は、まだ鳥越の甚内明神へは納めないであったものと見えます。甚内様へ納める代りに、お角の手に預けて、その後の幕を見ようともしない七兵衛は、この小屋を立ち出でてどこへ行くかと見れば、品川へ出て、東海道を真一文字に走《は》せ上《のぼ》ります。
十二
お松が、ひとりで気を揉《も》んでいるのみではなく、宇津木兵馬のこの頃は、誰が見ても変ってきたことがわかります。
第一は金銭に困っていること、第二は外へ泊って帰ることが多いこと、この二つは近来になって、ことさらに眼に立つようになりました。
それを、誰よりもいちばん早く見て取ったから、お松の気を揉むのは無理のない話です。
宇津木兵馬はこのごろ、吉原通いが面白くなりました。
あの時のように、東雲《しののめ》と二人で碁を打っているだけでは納まらなくなりました。東雲が勤め気を離れて兵馬を可愛がるようになると、兵馬の心が漸く熱くなってゆきました。
兵馬の傍にはお松という者もあり、お君のような美しい女もいるのに、兵馬はそれに心を取られることがありませんでした。
京都にいた時も、新撰組の連中と島原界隈にずいぶん出入りもしたけれども、ついぞ、その道に溺れるということがありませんでしたのに、ここへ来て東雲に打込むようになったのは、全く思案のほかと言わなければなりません。
人間が純良であるだけに、打込むことが深いと見え、女は商売柄、いくらかの余裕もあり、手管《てくだ》があっても、兵馬は突きつめた心で、その言うことの全部を信用してしまいます。生一本《きいっぽん》に打込むようになると、自分が愛するだけ、他から愛してもらわなければ満足ができないものになってみると、相手はこの上もない大敵であります。幾人の男にも自在に許すことのできる立場にいる女を、恋の相手として持つことほど、気の揉めることはないはずです。落ちて行くところは、他人には指一本もささせずに、己《おの》れの一人の愛情で包んでしまわなければならないということだが、それをするには、この女を身請《みう》けして、生涯を保証するということが第一の問題になっているけれど、それは兵馬の力では覚束《おぼつか》ないことで、女もまたそれを兵馬には期待していないのです。もしそんな場合に立至れば、兵馬でなくてもほかに心当りの客は、いくらもありそうなものです。今のところ、女は兵馬を可愛がり可愛がられて、勤め気を離れているというだけの気分ですけれども、兵馬には、もっと突きつめて、「世の中は金と女が敵《かたき》なり、早く敵にめぐり逢いたし」――いつぞや辻講釈で聞いた冒頭《まくら》の歌が、ひしひしと迫って来るようです。
兵馬に浴びせていた可愛ゆい言葉を、兵馬が去ればまたほかの人に惜気もなく浴びせる。兵馬を可愛がった情けを、また今宵《こよい》はほかの人に許してしまうのだ。さりとては、あんまり浅ましいと兵馬は帰りがけに、泣きたいほどに悶《もだ》えました。
この苦痛に翻弄《ほんろう》されて、へとへとになって相生町の老女の家へ帰って見ると、自分の部屋に人が一人いて、無遠慮に兵馬の机へ寄りかかって物を書いています。
「おお南条殿、いつお帰りになりました」
それは南条力でありました。
「やあ宇津木君、どこへ行っていた」
どこへ行っていたと言われた兵馬は、
「つい、そこまで」
と勢いのない返事です。
「君、面《かお》の色がよくないぞ」
南条はその爛々《らんらん》たる眼で、兵馬の面をジロリと見て、
「君が意気銷沈《いきしょうちん》していると娘たちが心配する、それに君、あまり外泊はせん方がよろしいぞ」
「…………」
兵馬はグッと詰まりました。
その時に南条力は、書きかけていた筆をさしおいて、膝を兵馬の方に向き直らせ、
「君のことだから、そうばかげたこともすまいけれど、はたで見ているものは相当に気を揉むらしい。気を揉ませぬようにしてやってくれよ、周囲《まわり》の者に気を揉ませるのがいちばん毒じゃ」
南条は光る眼をすずしくしてこう言いました。その言葉の節々《ふしぶし》が何もかも心得ているもののようで、真綿で首を締められるように苦しくもあるが、この人だけに頼もしいところもあります。
思案に余った上、兵馬はついに今の胸の中を、南条力に向って打明けました。
それを聞いていた南条力は、
「してみると、その気の毒な女を救うてやりたいが金が無いということに帰するのじゃな。ぐずぐずしていれば他人が引き抜いて持って行くかも知れぬという怖《おそ》れもあるのじゃな。ともかくも傾城《けいせい》一人を身請けするというからには、相当の金がいるはずである、よほど遊んだ金を持っている奴でなければできないことじゃ。宇津木君、君がそんなことに関係したのは柄ではない、よろしく見殺しにするに越したことはないのだが、君もここまで切り出して拙者に相談を打つからには、退引《のっぴき》ならぬ義理もあるのだろう、乗りかかった船で、ぜひに及ばぬ羽目になっているのだろう、ここは一番、拙者が肌をぬいでやろうかな」
こう言って莞爾《かんじ》として笑いました。兵馬にとってはこの一言が頼もしいような、擽《くすぐ》ったいような感じがしました。けれども、冗談《じょうだん》にしろこの男が一肌ぬいでやろうと提言してくれたことは、非常なる心強さで、思わず息がはずむと、
「ところで、その傾城を身請けして、いったい当人はどうするつもりじゃ、宿の女房にでも据えようとするのか、ただしは囲い者にでもしておこうというのか……まあいいわ、その辺はあらかじめ聞いておくべき必要はない。しかし拙者が肩を入れるとしてもだ、世間の金持の遊冶郎《ゆうやろう》のするように、大金を抛《ほう》り出して、馬鹿を尽した引かせ方はせぬつもりじゃ。少々|悪辣《あくらつ》な手段をめぐらすつもりだが、結局は理窟に合って行くやり方をして見せる。つまり正面から掛け合っては、埒《らち》が明かない上に金がかかるから、それで悪辣の手段を講じておいて善後策を上手にやる。その悪辣の手段というのは、女を盗み出すことじゃ、女を盗み出しておいて、親許《おやもと》を説き落してそれから談判させるのだ。女を盗み出すことは拙者に任せるがよい、親許を説き落すことも、拙者に任せるがよい、それがために要する多少の金銭も、拙者が君に免じて立替えてもよろしいが、宇津木君、その交換条件という意味ではないが、君に一つ頼みたいことがある」
と言いました。なるほど、やりそうなことである。南条ならば部下の二三の浪士を差向わして、女を盗み出させるくらいは朝飯前である。そうしておいて威力と和解と両方面から事を纏《まと》めることも、この男としては容易《たやす》い仕事であると思いました。それで兵馬は内心、非常に喜ばしく思って、一も二もなく南条に信頼することに決めました。況《いわ》んや南条から交換条件の意味であってもなくても、頼むと言われて、それを躊躇する気なぞは更にありません。その時に南条がおもむろに言いました、
「君に頼みたいことというのは、拙者共の仕事をするのにとかく邪魔になる奴が一人ある、水戸の浪人で山崎譲といって、鹿取流の棒にかけてはなかなかの達者だが、君の力でそいつをひとつ片づけてくれまいか」
意外にも南条の頼みというのは、宇津木兵馬の力によって、山崎譲を暗殺させようとのことであります。
その翌日の夕方になって、兵馬が、ついまたふらふらと迷うて行く足どりは、吉原の方面であります。
昨夜もここで夜を明かして、今朝帰ったばかりであるのに、またしてもこの門をくぐらなければならないように仕向けたのは誰が悪い。
兵馬が行った時に東雲《しののめ》にはほかの客があって、兵馬は暫く待たせられました。
兵馬は待たされることの、いつになく永いのを感じました。自分を待たせておいて、相手になっている今宵の客というのは何者であろうなどと考えました。
兵馬は実際、自分だけがこの女から可愛がられているつもりでいるのです。外の客はあってもそれは勤めの習いで、その女との本当の愛情は二人の間にのみあるものだと思っているのです。ただ二人の間に不足なのは、金銭が有り余るというわけにゆかないだけのことで、他に金銭を山ほど積むお客が幾らあったとて、二人がおたがいに可愛がるほどの愛情は湧いて来るものではないと思っているのです。遊女に迷うているものの自惚《うぬぼれ》には誰もありそうな心持ですけれど、兵馬のはそれがいかにも初心《うぶ》でした。しかしながら、自分がこうして待っている間に、恋しい女が他の客の相手になっているかと思えば、決していい気持はしません。
そのうちに東雲は、兵馬の許へ帰って来ました。兵馬が悶《もだ》えているほどに女は気にかけてはおりません。
「兵馬さん、わたしは近いうちに身請《みう》けをされるかも知れませんよ」
と例の通り無邪気な愛嬌をたたえて言いました。
「エ、身請けをされる? 誰に」
兵馬は足許から鳥の立つように驚かされました。
「そんなに吃驚《びっくり》なさらなくてもようございますよ、たとえ誰に身請けをされても、あなたとお会いすることのできないようなところへは参りませんから」
東雲の申しわけは、兵馬にとっては少しも申しわけになりません。それでも女は、兵馬に充分の好意を示しているつもりで、逐一《ちくいち》その身請けの話というのを兵馬に向って物語りました。
その話によると、日本橋辺のある大問屋の主人が、東雲を身請けをしようということに話が進んでいるのだそうです。今宵来ていたのはその客であろうと思われます。かなりの老人であるとのことだが、この女を身請けしていずれかへ囲《かこ》って置くつもりらしい。女も、それをまんざらいやとは思っていないらしい。もとより色でも恋でもないが、その通りの老人だから、世話になっているのも長いことではあるまいし、世話になっているうちも首尾さえすれば、どこでも兵馬を迎えて会うことができるからというような都合で、かえってこの廓《さと》にいるよりは勝手であるとの事情が唯一の理由となっているようです。
兵馬はそれを聞いて甚だ慊《あきた》らない。慊ら
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