ないのみならず、いまさら浅ましさを感ぜずにはおられません。人の力で自由にされたものに、そっと忍んで逢瀬《おうせ》を楽しむというような気にはなれません。女がそれをあたりまえのことのように心得、むしろ手柄のように思っていることが、兵馬には歯痒《はがゆ》くてたまりません。世話になって身を任せる人と、可愛がって楽しむ人とを区別して、平気でその間を取って行くことは、この社会に生い立った女には、ぜひもない観念かと思えば浅ましい。かりそめにも二人の間に本当の愛情があるならば、この際その商人とやらの身請け話を断わらせて、自分の力で万事をしてやらなければ、女の面目を立ててやることも、自分の面目を立てることもできないのだと思われてたまりません。そこへ来ると、自分になければならないことは、右の大商人とやらが積んで身請けをしようとするだけの金を、自分も持っておらなければならぬこと、そうでなければ南条力の力にたよって、非常手段を決行するのみです。その時に兵馬は、南条から頼まれた義理合いずくの交換条件を思い起しました。
「どうあってもこのままには置けない、よろしい、山崎譲を手にかけよう」
ついに兵馬の決心がここまで上りつめ、多年の仇敵に向ける刃《やいば》を、己《おの》れには罪も恨みもない、むしろ新撰組以来の誼《よし》みのある山崎譲に向けようとする兵馬の心には、天魔が魅入《みい》りました。
十三
竜之助を尋ねあぐんだお銀様は、染井の化物屋敷に帰って、土蔵の二階で写経を始めています。針の先で自分の左の指を刺して、そこから滲《にじ》み上る血汐を筆に染めて、法華経《ほけきょう》を序品《じょぼん》から写しはじめました。
今宵もまた、行燈の下で針を出して、左の人差指を刺しました。軟らかいふくらみへ針を立てると、ポッチリと茱萸《ぐみ》のような血が湧いて来ます。お銀様はそのチクリとした痛みと共に湧いて出る血を、さもいい心持のように眺めてから仕事にかかります。
一カ所で足りない時は、二カ所を刺します。指の先では食い足りないと思った時は、二の腕をまくり上げて針を立てます。どうかすると滲み上った血が筆に余って、ダラダラと腕を伝わって流れることもありますけれど、お銀様は一向それを気にするではありません。こんなことをして、法華経二十八|品《ほん》を写し終る時分には、お銀様の身体の血は一滴も無くなってしまうかも知れません。お銀様はそれを承知なんでしょう。それでも不意に書きかけた筆をさしおいて、梯子段《はしごだん》の上り口を見返るのは、どうも人が上って来るような気配がして、トントンと梯子段の途中まで上って来ては、そこで立ち止まっているものがあるように思われてならないからです。
昔、なにがしの聖《ひじり》が経文を写しはじめると、悪魔が苦しがって邪魔に来たということでありますが、お銀様の発心《ほっしん》を妨げる悪魔がそこまで来て、経文の功力《くりき》で上へ昇れないのかも知れません。けれどもお銀様はそれを悪魔だとは思っておりません。たしかに梯子段の下まで来た人がそこで迷うて、二階まで上りきれないものだろうと思っています。その人というのは竜之助ではありません。竜之助とは全く別な人が下まで来て迷うて、ここへは上りきれないものだと思われてならないのです。お銀様が写経の心願を起したのは、甲府の躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷で、神尾主膳の残忍な慾望の犠牲となって虐殺された幸内の菩提《ぼだい》を弔《とむら》わんがために始まったのが、中ごろから、法文をうつす殊勝な心よりも、今はかえって針で肉を刺す痛快味が、お銀様の身にこたえるようになりました。
「お嬢様、乱暴なことをなすってはいけません」
「いいのよ」
幸内の抑える声がしたかと思うと、お銀様はいっそう反抗的に、針を二の腕へブツリと強く刺し込みました。
「あ、痛!」
自分ながら、あんまり強く刺し込み過ぎたのを驚いて、あわてて引き抜こうとしたはずみに、ポツリとその針がなかばから折れてしまいました。ただ折れたんならいいけれど、半分折れたのは肉の中に食い止まっていて、折れたその半分だけが自分の指先に残りました。そこで、さすがにお銀様もハッとしましたけれども、折れた半分の針はどうしても抜くことができません。口を当てて吸い取ろうとして空《むな》しく努力しました。幾度口を当てて吸い上げても、お銀様の舌に磁石の力が備わっていない以上は、肉の中に残った針を引き出すことはできないのです。できないのをお銀様は、自棄《やけ》に吸い上げ吸い上げしたものですから、滲み出る血を、すっかり口中に吸い取りました。紙を開いて、それを吐き出して見ると、白紙の上に牡丹の花を散らしたように真赤な血です。
その時に人の気配がして、いつのまにかお銀様の背後《うしろ》に立っていたのは、悪魔でもなければ、幸内でもありません。それは真蒼《まっさお》な面《かお》をした竜之助でありました。
お銀様はそれを見るや、
「お帰りあそばせ」
肉に食い入っている針のことは忘れて、喜び迎えました。
けれども竜之助は、お銀様が今まで何をしていたか、いま何をしたのだかを見ることができませんから、いよいよ冷然たる上に冷然たるもので、じっと突立っているうちにも、いつもと違っているのは、右の手に一本の尺八を携えていることです。
この人は今まで、どこに何をしていたのだろうということはお銀様もまだ尋ねはしません。竜之助もまたそれを語ろうともしません。尺八と刀とを荒っぽくそこへ投げ出した竜之助は、手さぐりして夜具をはね返すと、その中へもぐり込んで寝てしまいました。お銀様は眼を凝《こ》らしてその挙動をながめていました。
その沈黙が暫く続いてから後、
「もし、あなた」
お銀様は枕許へ坐って優しい言葉をかけました。この時も返事はありません。
「針がここへ刺さって痛くてたまりません、誰か抜いて下さる方があればいいのに」
お銀様は独言《ひとりごと》を言いました。それでもなんとも挨拶がありません。
「半分、この肉の中へ折れ込んでしまっているのですから、とても抜けやしませんね、どんな大力の人だって、この針ばかりは抜き取ることはできやしません、抜かないでおくと、きっとここから肉が腐りはじめるでしょうよ、そうしているうちに、この手を切ってしまわなければ、身体中が腐ってしまいましょう、悪いことをしてしまいましたね」
お銀様は、独言を言って、折れた針の創《きず》から滾々《こんこん》と湧き出す血汐を面白そうにながめています。竜之助はそれを聞いているのか聞いていないのか、相変らず死んだもののように寝込んでいるのは、よくよく疲れきったものと見えます。
「もし、あなた、私の身体《からだ》が腐ってもいいのですか」
お銀様は物狂いでもしたように、荒らかに竜之助を夜着の上から揺ぶりました。それでも答えがありません。
「わたしはこうして血を絞ってお経を書いていました、もし、わたしの身体がここから腐っていいのなら、わたしはもう、この血でお経を書きません、書きかけたお経は反古《ほご》にしてしまいます、この血で歌を書いてしまいます。あなた、お経を書いた方がいいでしょうか、それとも、歌を書いた方がいいでしょうか。お経の有難味は、わたしにはまだ本当にわかりませんけれど、歌の面白味はどうやらわかっていますから、いっそお経をやめて、歌にしてしまいたいのです。信心をはじめて途中でよすと、二倍の祟《たた》りがあるということを、よく世間で言いますから、せっかく血で書きかけたお経をやめてしまえば、怖ろしい祟りがあるでしょう。法盛んなれば魔もまた盛んなりと何かの本に書いてありました、人が善心を起すと、きっと悪魔が片一方から妨げに来るそうです。この針の折れたのは、悪魔の仕業《しわざ》にちがいないと思います、悪魔が針の形に化けて、お経を書くわたしの手の中に食い入りました。これが取れなければ、いくらお経を書いても駄目なんでしょう。もし抜けるものならこの針を抜いて下さいまし、わたしの身体が、悪魔のために腐ってゆくことがおいやならば、この針を抜いて下さいまし。あなたは刀を使うことはお上手ですけれども、この短い針の折れ一本を、どうすることもできますまい。おお痛いこと、ヒリヒリと痛みます。それでもこの痛みはなんだかいい心持よ。もう一本、ここへ針を刺してみましょう、ようござんすか、あなた」
お銀様は、また一本の針をつまみ上げました。
その時に、土蔵の前の車井戸の輪がギーッと軋《きし》りました。誰か水を汲みに来たものと見えます。その車井戸がギーッと軋る音を聞くと、お銀様はゾッと身の毛をよだてました。お銀様は夜中に車井戸の軋る音を何よりも嫌います。その音がいやだから一旦はゾッとしたけれども、すぐにつまみ上げた第二本目の針を、なんの躊躇《ちゅうちょ》なく、ブツリと左の二の腕へ刺し込みました。真紅な血汐の粒がホロホロと湧き上りました。お銀様はそれをチクリチクリと深く刺し込みます。その度毎に少しずつこたえてゆく痛みが、なんともいえない快感を与えるものらしくあります。
その時、車井戸の音がまたキリキリと鳴りました。それと同時にけたたましい物音が、井戸側のあたりで起りました。
「おのれ夜中《やちゅう》、人の住居《すまい》をうかがうとは怪《け》しからん奴じゃ、誰に頼まれて何しに来た、それを言わぬと、この井戸の中へ投げ込むからそう思え、さあ、誰に頼まれて何しに来た、真直ぐに言え」
こう言って罵《ののし》っているのは、ほかならぬ神尾主膳の声であります。しかも主膳が、酔っぱらって酒乱になっている時の声であります。その言うところを察すると、何か怪しの者を捉まえて、それを井戸側まで拉《らっ》し来《きた》ったものらしくあります。お銀様は針の手をとどめて耳を傾けると、
「いいえ、決してそういうわけではございませぬ、わたくしは怪しい者ではございませぬ、安房の国、清澄山から出て参りました弁信と申す盲目《めくら》でございます、この通り眼が見えないものでございます、清澄山からこのお江戸へ出て参りまして、ほかに稼業《かぎょう》もございませんから、少しばかり習い覚えました平家琵琶を語って、門附《かどづ》けを致しておりますのでございます。ごらん下さい、この通り袋に入れて背負っておりますのが、その平家琵琶でございます。ほんとうに拙《つたな》い業《わざ》でございますから、収入《みいり》も至って少のうございます、それでも皆様のお情けで、どうやらその日の暮しに差支えないだけは御報謝をいただきますんでございます。ただいまは本所の報恩寺長屋に御厄介になっているんでございます、長屋でも皆様が、わたくしが眼が不自由なものでございますから、可愛がって、いろいろと世話をして下さいますんでございます」
こう言って申しわけをしているのは、まだ年の若い、なるほど、名乗っている通りの盲法師であるらしい声であります。ところがこの神妙な申しわけは、頭からケシ飛ばされてしまいました。
「黙れ、黙れ、嘘を言うな、貴様はニセ盲目《めくら》だ、誰かに頼まれてこの屋敷の様子を探りに来たものに相違ない、琵琶であれ、三味線であれ、門附けをして歩くほどの者が、この淋しい染井あたりへ、うろついてどうなるのじゃ、本所からここまで、どう間違っても盲目の独《ひと》り歩きができる道ではない、真直ぐに白状せねば、この井戸の中へ生きながら叩き込むがどうじゃ」
これは主膳の声ではなく、福村の声のようです。彼等はこの盲法師を、どこまでも偽物《にせもの》と信じているらしい。何者かの頼みを受けて、この化物屋敷の内状を探りに来たものと信じているらしい。
なるほど、そう疑えば疑われる余地がないではありません。門附けをして歩くと言いながら、田舎《いなか》同様なこの染井あたりへやって来るというのもわからない。また盲目の身で、本所からここまで流して来たというのも充分に不審の価値はあるのであります。それからまたこの化物屋敷の内状というものが、実
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