姿を現わすにはきまっています。姿を現わさないにしても、いずれにか志す所の安住の地があればこそ、駕籠を傭うたものであろう。駕籠屋とても、めくら滅法界に人を載せて走るというはずはありません。その落着くところと、与えらるる酒料《さかて》の胸算用を度外にして、物好きに人を載せて走るということはありません。駕籠屋をつきとめて見さえすれば、大概はわかることでありますが、その駕籠屋が朦朧《もうろう》にひとしいもので、いずれの町内から運んで来て、いずれへ向って走ったか、それを尋ねると煙の如くになってしまいます。さりとて今更、甲州でもあるまいし、神尾主膳をたよって行くでもなし、宇治山田の米友に介抱されるでもなし、明るい日は一寸も独り歩きのできない身になって、その昔のように、鈴鹿峠を越えて、上方《かみがた》の動乱の渦に捲き込まれようとする勇気もなかろうし、よし勇気があったにしたところが身体が許さないし、今は京都で威勢を逞《たくま》しうしている、かの新撰組の手が江戸へ舞い戻ってでも来るようなら、そのうちにはおのずから竜之助を援護する者も出て来ようけれど、今のところ、そんなあてはなし、早駕籠で飛ばしてどこへどう落着こうとするのだか、その見当は、どうもわかり兼ねます。それでも、お銀様との間に意志の疏通が出来ているならば、どこかで謀《しめ》し合わせて二人で身を隠すものとも思われるが、お銀様は、あれからああして、米友を案内にして心当りを探しているくらいだから、ここ暫く、二人の間の縁《えにし》の糸が切れていると見なければなりません。そうしてみると、机竜之助の落ち行く先はいよいよ想像がつかなくなります。
いろいろ思いめぐらしてみると、思い当るところが、たった一つあるにはある。机竜之助には一人の男の子があったはずで、その名は郁太郎といって、それを養っているのが水車番の与八であることは、もう久しいものであります。そう言ってみればなるほど、急に里心がついて、我が子に逢ってみたくなったかも知れない。紀伊の国竜神の奥においても、そのことを見えぬ眼の夢に見て、血の涙をこぼしたことがあるはずです。甲斐の国|躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷でも、峠を一つ越えて甲斐と武蔵の境を抜けさえすれば、そこにわが子の面影《おもかげ》を見ることを、人に語って涙を呑んだこともあるはずです。江戸へ着いて、いずれの時かそれを思い起して、帰心《きしん》矢の如きものあるべきは、情においても、理においても、当《まさ》にしかるべきところがあるが、今では、もう義理にも人情にも泣こうという涙は涸《か》れて、ただただ血に渇く咽喉《のど》が拡大し、夜な夜な飽くまで人の血を貪り飲むの快味に我を忘れ、我を荒《すさ》ましめているに過ぎなかろう。今時分、里心に駆られて故郷《ふるさと》へ帰ってみたって、そこには何の興味もあるべきはずはない。興味はあるべきはずはないけれども、この際、何とはなしに帰りたくなったものと見れば論はないが、肝腎の早駕籠は甲州の裏表の街道、いずれをも飛んで行く形勢はなくて、意外千万のことには、その夜の大引け前になって、竜之助は杖をついて、吉原の大門内を忍びやかに歩いていました。
お銀様は吉原の廓《くるわ》のうちを探していたけれど、その時分には竜之助はあまり吉原へは立入らなかったようです。
今日この時分にここへ入り込んだ竜之助の姿は、あまり人目にはつきませんでした。茶屋から行こうとするのでもなく、以前神尾に連れられて行った万字楼をさして行こうでもありません。茶屋と妓楼《ぎろう》の軒下を例の通り忍びやかに歩いて、巴屋《ともえや》の前へ来ると立ち止まりました。そこで、彼が巴屋の暖簾《のれん》を押分けて入ってしまったきり、出て来ないのは不思議です。
竜之助の姿が巴屋の暖簾の下で消えると、まもなく、
「大隅《おおすみ》さん、大隅さん」
と誰やらの呼ぶ声が聞えました。
「あいよ」
二階の一間で返事をしたのは、若い女の声であります。
「按摩さんが参りましたよ」
「あ、そうですか」
まもなく番新がそこへ連れ込んだのは、按摩さんとは言い条、決して机竜之助ではありません。廓《くるわ》へ出入りするあたりまえの按摩を、番新があたりまえに引張って来たのに過ぎません。まもなく連れ込まれた按摩は、中でハタハタと肩の療治にかかりながら、世間話をはじめているのが、よく聞えます。
「万字楼の白妙《しろたえ》さんは、かわいそうなことを致しました、ほんとにお気の毒でございますよ、まあ、なんて運が悪いことでしょう」
「万字楼の白妙さんが、どうかなすったの」
「花魁《おいらん》はまだあれをお聞きになりませんか。柳原の土手で、あの花魁が殺されてしまいましたよ」
「え、柳原の土手で、あの白妙さんが殺されたって? そりゃ嘘でしょう」
「いいえ、嘘なんぞは申しません、あの花魁が御贔屓《ごひいき》の旦那にひかされて、矢の倉の親御さんのところへお帰りになったのは、つい近頃のことでございましたが、お礼参りだといって柳原の、杉の森の稲荷様へ御参詣になった帰りに、やられてしまいました」
「へえ、ずいぶん、怖ろしいことを聞くものですね、まあ、どうしてそんなことになったのでしょう」
「このごろは、江戸の市中へ辻斬ということが流行《はや》って、行当りバッタリに殺《や》られる人が何人あるか知れません。ほんの近いところですけれども、一人で夜歩きをなさったのが、あの方の落度《おちど》でございますね、その帰りにやられてしまったんでございます。それでも、人の噂には、あれは辻斬ではなかろうということでございます、辻斬ならば、スッパリと抜打ちかなにかにやるんでしょうけれど、あの花魁のは抉《えぐ》ってあるんだそうですから、何か遺恨《いこん》があって、つまり恋の恨みだろうと言って、専《もっぱ》らの評判でございますよ」
「いや、いや、そんな話は、もうよしましょう、今時、まだ恋の恨みで人を殺すような男があるのか知ら」
「そりゃ、ありますともさ、いつになっても、この道ばかりは別でございますからね」
按摩がうっかりこんなことを言った時に、面《かお》がダラリと伸びて、口が耳まで裂けたようでしたから、この部屋にいる人が、みんなゾッとしました。
そこへ、白い羽二重を首に巻いて、十徳《じっとく》を着た、坊主頭の、かなりの年配な、品のよい人が不意に姿を現わし、障子をあける音もなしに入って来たから、眼の見えない按摩のほかは、新造《しんぞ》も禿《かむろ》も一度に狼狽して、
「御前様《ごぜんさま》、ようこそ」
と言って手をつきました。無論、当の花魁の大隅も、按摩をやめさせて居ずまいを直したものです。
ところが、どうでしょう、一度に狼狽して敬意を表した部屋中の人々が、
「おやおや」
と言って面を見合わせたが、その面は、いずれも土のようになっていました。
「たしかに御前様がおいでになりましたね」
新造が言うと、
「ええ、たしかにおいでになりましてよ」
禿《かむろ》が返事をしました。大隅もまた、
「まあ、どうしたのでしょう」
呆《あき》れた上に、歯の根が合わなくなっているようです。取残されているのは按摩さんだけで、それは、きょとんとしてせっかくの話の腰も折られ、療治の手をやめさせられて、ほんとうに手持無沙汰で控えていました。
眼の見えるもの三人は、たしかに入って来た、白羽二重を首に巻いて十徳を着た坊主頭を見たのです。だから、慇懃《いんぎん》に手をついて、めいめいの頭まで下げたのに、下げた頭を上げた時分にはその客はいないのです。入って来たのが、いかにも突然であったのに、消えてしまったのが、またあまりに突然です。前の話があって、ゾッとして寒がっているところへ、それですから、惣身《そうみ》に水をかけられたような思いです。
前代の大隅に熱くなって通っていた浅草のある寺院の住職がありました。法体では吉原へ通えないから、大抵は医者のような姿をして通っていました。この寺は裕福な寺であって、この住職は大隅のためにはずいぶん金を使ったものです。大隅は表面|上手《じょうず》にもてなしたけれど、内々はずいぶん悪辣《あくらつ》な金の絞り方をなしたものと見えます。
「大隅さんは、あんなことをして罰が当らないでしょうか、坊主を欺《だま》すと七代|祟《たた》るということだから、後生《ごしょう》が怖ろしい」
と蔭口を言われたこともありました。しかし、いよいよ熱くなっていた坊さんは、それでもいっこう悔ゆる気色《けしき》がなく、ひきつづいて通っていました。
今も、心安く、すうっと大隅の部屋へ素通りしたものと思っていると、その姿が見えないというわけです。
「御前様のお面《かお》が真蒼《まっさお》でした」
禿が唇を顫《ふる》わして言いました。
「そう言えば、肩のところに血が滲《にじ》んでいたようでした」
それっきり、ものを言う者がありません。
「大隅さん、大隅さん」
やや暫くたって障子の外から呼ぶ声で、一同が息を吹き返したようなものです。
「大隅さん、あなたをお名ざしのお客様をお通し申しました、御初会《ごしょかい》かと聞きますと、そうではないとおっしゃいます、お馴染《なじみ》かとおたずね申しても、そうではないとおっしゃいます、お一人で、ずっとお通りになりましたから、常のお客様と存じましたところが、お目が御不自由のようでございます、まあ、とにかく、お迎えにおいで下さいまし」
廊下に立って誰とも知らず女の声で、こう言う者があったから、大隅は立ち上りました。
大隅を名ざしで来たのは竜之助であります。初会ということでもなし、馴染ということでもないから、多分、二度目でありましょう。してみれば、いつのまにか、一度はこの家の、この女と会うたことがあったのに違いない。
しかしながら、ほんの訪ねて来たというだけで、二人は別れ別れになってしまいました。大隅は自分の部屋へ来て、気分が悪いと言って寝てしまいました。竜之助は疲労がはなはだしいと言って、他のいずれかの部屋で寝てしまいました。
その間には、芸妓、幇間《ほうかん》を揚げて盛んに騒いでいる客もあります。一つの間に、たった一人で、しきりに義太夫を語っている者もあります。ひそひそと内密話《ないしょばなし》をしている者もあります。急がしそうに手紙を書いている人もありました。
竜之助の寝ているところへ、廊下を通った番新が、そっとあけて、屏風の中を覗《のぞ》いて、無事に寝ていることを確めて安心して行ってしまいました。不寝番《ねずのばん》が油を差しに来た時も、ちょっと驚かされたけれども、やっぱり無事に眠っているものだから、安心して行ってしまいました。
寝返りを打った途端に、右の手の傷がヒリリと痛んだために夢が破れた竜之助は、こんしんからの深い息をついて、痛む傷を押えようともせずに、見えない眼を見開きました。さいぜん注《つ》ぎ足して行った行燈《あんどん》のあかりが、明るくその網膜にうつッて来ました。夜が明けても眼が見えないし、昼になっても眼が見えない。寝ても見えないし、起きても見えない。横になっても、縦になっても、見えない眼は、やっぱり見えない。
そもそも今夜、こうしてここへ、女の名を覚えていてやって来たのも、裏を返すというような遊蕩気分に駆られて、やって来たわけではあるまい。すべてが闇黒《あんこく》であって、ただ人を斬ってみる瞬間だけに全身の血が逆流する。その時だけがこの男の人生の火花なのだから、恋とやら、情とやらいうものは、もう無いものになっているはずです。
美しい女もないし、醜い女もない。恋せられたって、愛せられたって、それがどれだけも骨身にこたえるものでもあるまい。金で買われる果敢《はか》ない一夜の情に堪能《たんのう》して、それで慰められて行くならば、何のたあいもない!
この男にとって最も悲惨なのは、夜中に夢が破れることです。その夜中に夢が破れた時、お銀様がいれば辛《かろ》うじて、その裂け目をお銀様が繕《つくろ》うてくれました。宇治山田の米友が一緒にい
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