の姿は見えないし、ことわりの使もやって来ないから、もうあきらめたものと見えて、大小を取って手挟《たばさ》みました。駒井甚三郎は、近々《ちかぢか》に房州へ帰らなければならぬ。このほど江戸へ上って来たのは、洲崎《すのさき》の海岸で船を造らんがために、その費用と、材料と、大工とを求めんがために、来たものであることは申すまでもありません。お角も茂太郎も、それと一緒には遣《や》って来たものの、駒井にとっては、それは偶然の道連れに過ぎないが、お角や茂太郎にとっては、駒井甚三郎は再生の恩人であります。駒井の役に立つことならば、何を置いてもつとめなければならないし、もし甚三郎が急に立つものとすれば、やはり何を置いても見送らなければならぬはずです。

         十

 机竜之助は、あの晩から再び弥勒寺《みろくじ》の長屋へは帰りませんでした。染井の化物屋敷へも姿を見せた形跡はありません。練塀小路《ねりべいこうじ》の湯屋を出たのはたしかに、その人であったに相違ないけれど、早駕籠《はやかご》の行先はわかりません。
 けれども、天にかくれようはずもなし、地にくぐろう術《すべ》もないから、日ならずどこかへ
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