ている先生の片手には、手拭かと思うと、そうではない、晒の切れを引きずっているが、その晒の切れは、ところどころ血の滲《にじ》んだ細い切れであります。
 定連《じょうれん》の朝湯の客は、この物狂わしい先生の挙動を、寧《むし》ろおかしがっていたが、先生は大急ぎで着物を引っかけて、帯を締めると、湯銭も茶代も、そっちのけにして、梯子を下りて表へ飛び出してしまいました。裸で飛び出さなかったのが見《め》っけ物《もの》で、煙草盆を蹴飛ばさなかったのが勿怪《もっけ》の幸いです。
「油断も隙もなりゃしねえ、どうもおかしいと思ったんだ、なんだか横顔にチラリと見覚えがあるから、こいつ、おかしいなと思ったんだ――野郎、伊勢の国のことを忘れたか、船大工のうちで、拙者が目をかけてやったのを忘れやすまい、江戸へ出て来たんなら、出て来たと拙者のところへ、一言《ひとこと》の挨拶があっても悪い心持はしねえ、あの目がよ、あれでじいっと心がけをよく養生をしていりゃあ、どうやら物になる眼なんだが、あの心がけじゃ物にならねえや、いい気味だ、あん畜生――いい気味はいい気味だが、今、どこに何をしているんだ、ああして朝湯に来るんだから、
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