そこで二人三人、知った面《かお》が見えると、昨晩の柳橋の辻斬の話であります。前の晩、柳原で女が殺されたことは、この辺は管轄違いか知らん。それとも、昨晩の柳橋の出来事が大きかったために、それに食われたものか。柳橋の上で侍が三人まで斬られていたということ、その場へ現われて狼藉者を追い散らしたのが長者町の道庵先生であったというようなことから、辻斬に次での道庵先生の評判が呼び物になりました。ところが、威勢よく、その時に二階へ上り込んで来たのが、今も噂の主の道庵先生その人でありましたから、集まっていたものが、やんやと喝采しないわけにはゆきません。
「いよう、長者町の先生」
 彼等は、おのおの席を譲って、下へも置かぬもてなしであります。
「先生、昨晩はまたエライ働きをなすったそうで、いつもながら、先生のお手並には恐れ入ったものでげす。ただいまも、みんなその噂をしておりました、なんでも先生は、ああして猫を被《かぶ》っておいでなさるんだが、実は、中国のしかるべき家中の御浪人で、武芸十八般、何一つ心得ておいでなさらぬのはないという評判でございますよ。本業のお医者さんの方は、界隈《かいわい》きっての名人で
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