お銀様は、また一本の針をつまみ上げました。
その時に、土蔵の前の車井戸の輪がギーッと軋《きし》りました。誰か水を汲みに来たものと見えます。その車井戸がギーッと軋る音を聞くと、お銀様はゾッと身の毛をよだてました。お銀様は夜中に車井戸の軋る音を何よりも嫌います。その音がいやだから一旦はゾッとしたけれども、すぐにつまみ上げた第二本目の針を、なんの躊躇《ちゅうちょ》なく、ブツリと左の二の腕へ刺し込みました。真紅な血汐の粒がホロホロと湧き上りました。お銀様はそれをチクリチクリと深く刺し込みます。その度毎に少しずつこたえてゆく痛みが、なんともいえない快感を与えるものらしくあります。
その時、車井戸の音がまたキリキリと鳴りました。それと同時にけたたましい物音が、井戸側のあたりで起りました。
「おのれ夜中《やちゅう》、人の住居《すまい》をうかがうとは怪《け》しからん奴じゃ、誰に頼まれて何しに来た、それを言わぬと、この井戸の中へ投げ込むからそう思え、さあ、誰に頼まれて何しに来た、真直ぐに言え」
こう言って罵《ののし》っているのは、ほかならぬ神尾主膳の声であります。しかも主膳が、酔っぱらって酒乱にな
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