なんとも挨拶がありません。
「半分、この肉の中へ折れ込んでしまっているのですから、とても抜けやしませんね、どんな大力の人だって、この針ばかりは抜き取ることはできやしません、抜かないでおくと、きっとここから肉が腐りはじめるでしょうよ、そうしているうちに、この手を切ってしまわなければ、身体中が腐ってしまいましょう、悪いことをしてしまいましたね」
お銀様は、独言を言って、折れた針の創《きず》から滾々《こんこん》と湧き出す血汐を面白そうにながめています。竜之助はそれを聞いているのか聞いていないのか、相変らず死んだもののように寝込んでいるのは、よくよく疲れきったものと見えます。
「もし、あなた、私の身体《からだ》が腐ってもいいのですか」
お銀様は物狂いでもしたように、荒らかに竜之助を夜着の上から揺ぶりました。それでも答えがありません。
「わたしはこうして血を絞ってお経を書いていました、もし、わたしの身体がここから腐っていいのなら、わたしはもう、この血でお経を書きません、書きかけたお経は反古《ほご》にしてしまいます、この血で歌を書いてしまいます。あなた、お経を書いた方がいいでしょうか、それとも
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