兵馬は足許から鳥の立つように驚かされました。
「そんなに吃驚《びっくり》なさらなくてもようございますよ、たとえ誰に身請けをされても、あなたとお会いすることのできないようなところへは参りませんから」
 東雲の申しわけは、兵馬にとっては少しも申しわけになりません。それでも女は、兵馬に充分の好意を示しているつもりで、逐一《ちくいち》その身請けの話というのを兵馬に向って物語りました。
 その話によると、日本橋辺のある大問屋の主人が、東雲を身請けをしようということに話が進んでいるのだそうです。今宵来ていたのはその客であろうと思われます。かなりの老人であるとのことだが、この女を身請けしていずれかへ囲《かこ》って置くつもりらしい。女も、それをまんざらいやとは思っていないらしい。もとより色でも恋でもないが、その通りの老人だから、世話になっているのも長いことではあるまいし、世話になっているうちも首尾さえすれば、どこでも兵馬を迎えて会うことができるからというような都合で、かえってこの廓《さと》にいるよりは勝手であるとの事情が唯一の理由となっているようです。
 兵馬はそれを聞いて甚だ慊《あきた》らない。慊ら
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